神様とお話し


みさなんはクリスチャンに対してどんなイメージを持っていますか?
私がクリスチャンだとわかると「え〜っ!?」って言われます。(笑)
これはそんな落ちこぼれと神様との会話です。
ビールでも飲みながら気楽に読んで下さい。少しずつ書き足していきます。

イジメられっこ 信仰もバラバラ 大公の聖母
神様との出会い:その1 閑話休題:理学療法士 閑話休題:御像、御絵、聖人
神様との出会い:その2 流浪の民 いざ、トラピストへ
閑話休題:遺愛女子高等学校 犬も歩けばカトリックに当たる クリスマス夜半のミサ
受洗 日常生活に密着した信仰 ありのまま
閑話休題:日本基督教団函館教会 御聖堂見物 キリストにはかえられません
徳島へ 閑話休題:お気に入り映画 閑話休題:レーナ・マリア
これってエキュメニカル!? 隠れカトリック ヨハネがヨハネにつかまった!?
閑話休題:阿波弁 あれ、だあれ? パソ通にハマる
身体がバラバラ 再洗礼 役人にはなれない



私のおもちゃ 2P目 3P目


イジメられっこ
神様、昔話しからしましょうか。私には昔でも神様にはほんの一瞬前のことでしょうけれど。私が生まれる前から神様は私のことを覚えておいでで、私を神様に向かわせるようにお創りになったのですから。

私は生まれつき目が悪くて普通学校に入学することを拒否されました。今から30年以上前のことですから言われるままに盲学校へ入学。下校時のバスの中であるおばあさんが私を指差し、孫に「言うことをきかないとあの子みたいになるよ。」と言いました。今でもあの時のショックは忘れません。「親の因果が子に報い」とも言われました。

私はアルビノと言って身体の色素が薄い障がいでした。その当時、髪は金髪、目は色素がなくてまぶしいのと、紫外線保護のため、真っ黒いサングラスといういでたちでランドセルをしょっていたのですから。

「白人の子」と石をぶつけられる類のイジメはしょっちゅう。だから同じアルビノの後輩は私のスカートのかげに隠れて1歩も外へ出なくなります。私はおてんばだったので、やられたらやりかえして逆にイジメた子を泣かす始末。

実家は浄土真宗、祖母は創価学会の信者で祖母は熱心にお経をあげ、私にも仏壇に向かって手を合わせたり、お経を一緒に唱えさせたりしていました。でも私は子供心に反発していました。

「神も仏もあるものか」

これがこの当時から今にいたるまで私の信仰の源になっているのかもしれません。

神様との出会い:その1
小学校の夏の遠足はいつも上湯の川にある天使の聖母トラピスチヌ修道院「天使園」でした。当時は野生のすずらんが咲き、虫取りに絶好の場所。道路も舗装しておらず、車がすれ違う時はどちらかがバックしなければならないという今の天使園周辺の状況では想像もつきません。

中庭にある十字架を持った女の人の白い御像を見上げて「綺麗な人」と憧れたのを覚えています。マリア様だと思っていたけどそれはリジューの聖テレーズの御像。まさかその名前を堅信名でいただくとは・・・

同じく夏。実家から車で20分の所に灯台の聖母トラピスト大修道院があります。夏休みの宿題で修道院の門前の木陰でよくスケッチをしていました。セミや鳥の鳴き声が聞こえ、今のように観光地化していなかったから静かでした。

聖務日課の鐘が鳴ると作業服を着てトラクターに乗った修道士や白黒のホルスタインのような修道服を着た修道士が走って戻って行くのが見えました。父に小さなペンダント(おメダイ)を買ってもらったのを覚えていますが、それから30年近く経って、まさか私がその男子修道院の御聖堂で御ミサに与ったり、白黒の服を着たかたがたと親しくさせていただくとは・・・

このホームページだってトラピストのご協力なしにはできなかったのですから。神様、無礼を承知で、あえてこう、呼ばせて下さい。

「オヤジ、やるな!」

神様はその当時から私に呼びかけておられたのですね。でも、私が神様の存在に気づいて、その呼びかけに「はい」と答えるのはもっとずっと後のこと。

神様との出会い:その2
神様の存在を知ったのは高校に入学してからでしたね。
少し視力の良い人は理学療法士を目指し、東京の盲学校に入学するために札幌の高等盲学校に行くのが「お約束」。それが合格間違いなしのコースだったから。クラスメートは先生が敷いてくれた楽なレールに乗ることに何の疑問も感じていませんでした。今のような統合教育の理念もない時代でしたから「外」の世界に出ることはコワイことでしかなかったのです。盲学校は温室でした。

でも、あまのじゃくの私は9年間のそういうどこか異様な特殊学校生活に飽き飽きして、普通高校に行きたいと担任を困らせました。重複障がいを持った人と一緒なので毎年、教科書の半分も消化できないカリキュラムの上に、模擬試験もないから内申書は真っ白。しかも私が行きたいと言ったのは当時、函館の女子生徒の憧れの的だった私立高校で盲学校から過去に合格した人が誰もいなかったのですから。

頭の悪い私がこの高校に合格したのは奇跡だとばかり、盲学校の先生は合格の全校放送をかけたっけ。

入学時に聖書と讃美歌集を買わされ、毎朝、授業前に礼拝があり、週に1時間、宗教の時間もありましたが、宗教の授業中は居眠りをしたり、最前列、真中の席で堂々と編物やマンガを描く内職(?)をして熱心ではありませんでした。理屈っぽい聖書解釈の勉強が嫌いというのはあれから20年以上経った今もあまり変わってませんけどね。(^^ゞ

花の高校生活でしたが、視力障がいのためのイジメや苦労もありました。おかげで友達を作るノウハウ(?)が自然と身につきましたし、打たれ強くもなりました。部活も合唱部、イラスト研究部、YWCAと3つに首を突っ込んで、特に合唱は発声はむろんのこと、プロテスタントの学校だったのにNHKコンクールの自由曲はなぜかミサ曲ばかりを歌っていたのでラテン語、ドイツ語の文法まで習わされたのが後々、私の信仰生活を変えるきっかけになったとは…

閑話休題:遺愛女子高等学校
プロテスタント系ミッションスクール。創立百年を当の昔に過ぎた歴史ある学校。昔は創立者の名前をとって「カロラインライト・メモリアル・スクール」という校名だったが、日本語に直して「遺愛」となった。併設中学もある。

セーラー服に2輪のすずらんが校名を囲むエンブレムが入ったブレザーという制服を着るのが憧れだった。今は勝手に周りが賑やかになって繁華街のド真中になったが、昔は田舎だったらしい。学校の敷地は広く、たくさんの樹木や花に囲まれ、函館山に次いで、野鳥の宝庫と言われている。敷地内の桜を見ながら外人教師が英語の授業をしたりとユニークな学校。

敷地内にある宣教師館は通称「ホワイトハウス」と呼ばれ、文化財に指定されている。観光バスが止まったり、カメラマンがポスターやカレンダー用の撮影にしょっちゅう訪れる。今は保存のために使われていないが、私が在校中は本館が現役で使われており、これまた和洋折衷の歴史的建築物で建築家がゾロゾロと見学に訪れていた。

石坂洋次郎の「若い人」という小説のモデル校でもあり、この小説は何度も映画化されている。2年の時にTV局がこの「若い人」の特別番組を作るために撮影に来た。合唱部はなぜか「青い山脈」を歌わされた。道内放送だとばかり思っていたのになんと全国放送だったとは!汚い顔を全国にさらした。(^_^;)

受洗
転機は高校2年の時。クラス担任が「今だから言うけれど」と私の入学にまつわる話しをしてくれました。内申書真っ白、障がい者ということで私は及落判定会議にかけられていたのです。今まで障がい者を受け入れたことがなかったからでした。

多数決で私の入学の是非を決めようということになり、私の入学賛成に手を挙げてくれたのは全員、クリスチャンの先生だったとか。この話しを聞かなかったら、私は神様、あなたを求めたかどうか。

小さな頃からいじめられ、差別(区別と差別は違います)されるのが当たり前だった私は今まで出会った人とは違う価値観の人がいるということを知ってビックリ。この先生達の価値観って何だろう?価値観の元になっているキリスト教について知りたいと思いましたが、実際に教会へ通い出した動機は不純でしたね。(^^ゞ

1年の時、宗教を担当していた牧師先生に憧れていたのと、適当なレポートでも(自己犠牲と愛について書けと言われてなんと当時流行ったアニメ、宇宙戦艦ヤマトの話しを書いた!)90点以上をつけてくれるからという理由でその先生の教会に通い出したのですから。通い出して半年ほどで「洗礼を受けませんか?」と問われて「はい」と答え、1979年12月22日にその牧師先生から洗礼を受けました。

驚いたのは「人はパンのみに生きるにあらず」とか言って、父まで一緒に洗礼を受けたこと。オイルが付いた作業着とステテコ姿しか見たことがなかったのに背広なんか着ちゃって。この日から父と娘、バラバラの信仰生活珍道中が始まります。

でもねぇ、神様。神様はとっくにご存知でしょう?
神様からの呼びかけに「はい」と答えるのが洗礼ですけれど、今振り返ると、価値観が変えられて、本当に神様の御後に従いたいという意思がこの時、どれだけあったか。いや、「ほとんどなかった」が正解でしょうね。

入信した動機は私の場合、特殊かもしれませんが、洗礼自体は言ってみれば「何の気なしに」受けたと言っても過言ではありません。それを証拠にそれほど罪人意識も、救われたという気持ちもなかったのですから。監事会で読み上げた信仰告白もどんな内容だったか覚えてもいません。だから「これで他の人と同じく聖餐式の時にパンとぶどう酒がもらえる。」程度だったかと。

閑話休題:日本基督教団函館教会
プロテスタントの教会では日本で3番目に古く、函館観光元町散策コースの中にあります。今は案内板もありますし、夜にはライトアップもされる日本基督教団メソジスト派の教会。メソジスト派は聖公会から分かれ、聖公会はカトリックから分かれた派のせいか、プロテスタントの教会には珍しく、講壇の前に昔のカトリックで言えば聖体拝領台そっくりの跪き台があり、洗礼、聖餐はこの台で跪いて受ける形式で、他から来たプロテスタントの人はみんなビックリします。私は最初からこの形式だったから何の違和感もなかったし、後にカトリックの形式にもすんなり溶け込めたのかも。

交通:函館駅前から市営バス「高竜寺前行」に乗り、元町下車。徒歩1分
礼拝:日曜日午前10時30分

徳島へ
卒業する年に札幌にあるH大学医療短期大学に理学療法士学科ができたのでチャレンジしようとしましたが、盲学校出身という理由で願書を返されて受験すらできませんでした。札幌の高等盲学校の先生に「ほらみたことか」みたいなことを言われてくやしかったけど、しかたなく東京の盲学校を受験しましたがあえなく落ちました。

盲学校出身を隠してバイトをしながら浪人生活。神の十戒の第八戒「汝、偽証するなかれ」に違反。だってそうでもしないとバイトもできなかったんですもの。(と、言い訳をするクリスチャン)教会では日曜学校のリーダーに任命されて牧師夫人のお手伝いをさせていただいたけれど、ただ単に子供と遊んでいただけ。でも、大学生のお兄さん、お姉さんリーダーもいたし、楽しかったですねぇ。

理学療法士を養成する盲学校は東京、大阪、徳島の3校だけ(徳島は平成22年理学療法科閉鎖)。家の経済状態では2浪はできない。大阪は住民票がなければダメと言われたので翌年は東京と徳島の2校を受験。

再度チャレンジした東京の面接で都内にそれなりの「役職」の肩書きを持った保証人がいないと入学できませんとはっきり言われて愕然!一応、保証人は立てていたけれどホテルにまで役職名を聞く電話が学校から来たのにはビックリ!ハナから正規のルートでは合格できない仕組みになっていたとは!札幌の高等盲学校から受験した元クラスメートはちゃんと受かっていたのだから。ここでもまた、私は叫んじゃいました。神も仏もあるものか!って。

次は3月下旬という、試験日が一番遅い徳島へ。徳島の盲学校は保証人も住民票もいらず、筆記、面接、体力測定試験の一発勝負!試験日が遅いから他の学校をすべった人が押し寄せて15名定員に受験者数は150名を超えていたから「こりゃ、あかん!」と完全に諦めモード。

函館ではゴールデンウィークが終わる頃に満開になる桜が咲いていたから「お花見だーい!」とヤケクソで記念写真を撮って函館に戻ったら合格通知がおっかけてきた。うそっ!!入学式まで10日しかない!慌てて四国徳島へ。げんきんな私は神様、ありがとう!って、これじゃご利益宗教ですね。(^_^;)やっぱりいいかげんなクリスチャン。結局、盲学校に12年通うことになりました。

これってエキュメニカル!?
2年間、寄宿舎生活をしましたが、隣の部屋に2年先輩のクリスチャンがいました。同じ日本基督教団所属の静かで優しい先輩でした。教団の教会は「ちいろば先生」で有名な今は亡き榎本牧師が司牧していた教会がありましたが、山を越えなければならず、遠すぎて通えなかったので、学校の近くにあった日本キリスト教会の教会へ通いました。

同じく2年上にモルモン教とエホバの証人の信者の先輩までいて、なぜか毎週一緒に連れだって礼拝に行きました。どちらもキリスト教ではありませんから本来、おかしな話しですけど、良い先輩達でしたから異端だなどとめくじらをたてませんでしたし、宗教論争も起きませんでした。

後に教派の違いでネット上で論争が起きるのを目の当たりにしたことを思えばずっと平和でしたよ。でも、あの先輩達の教会(?)も私達同様、近くになかったからなのかしら?3年になり、大阪へ実習に行ってもそれなりに礼拝に行っていました。でも、私が真面目(?)だったのはこの5年間だけでしたね。

就職はこれまた「盲学校出身者はいらない」あるいは「女はいらない」のどちらかでハネられっぱなし。今でこそ女性の理学療法士がたくさんいますが、当時はまだ男性の仕事と思われていました。確かに肉体労働ですから結婚、出産で退職する人が多いせいでしょう。

Uターンしようにも函館には柔道整復師が幅をきかせていたから理学療法士を受け入れてくれる病院はなくて、札幌の老人病院に就職が決まった時にはクラスメートの中で私が一番最後でした。上の理由で就職率は視力に比例してもいましたから。

国家試験が終わって卒業する間際に教官に呼び出され、理学療法士ができるギリギリの視力だからよほど努力をしないとクビになると諭されました。あぁ、前途多難。今ならおーまいがっ!!とでも言ったかも。とりあえず徳島から札幌へ。ここで私は信仰生活の長い流浪の旅に出ることになります。

閑話休題:阿波弁
私は大阪で生まれ、北海道暮らしが今のところ1番長く、今は東京とあちこちに住んでいて方言がまぜこぜになっていますが、徳島の言葉もなかなかユニークで3年住んだら身についてしまいました。ほんの一部ですがご紹介します。語尾に「で」が付くのが特徴で疑問文にも「で」が付きますが、イントネーションは上がらないので、最初は聞かれているということがわかりませんでした。(^^ゞ

ほなけん: だから いぬ: 帰る
いらんで: いらない? せこい: しんどい
いらう: 触る おいでますか: いらっしゃいますか

身体がバラバラ
就職した病院は経営者が変わったばかり。5人いたPTのうち、4人が辞め、2年上の女主任と助手さん6人と新卒の私で百人を超える患者さんの治療に当たらなければならないという新卒者の私にとっては目の回るような日々。

スタッフの頭数はいても資格者が主任と私しかいないため、百割る2というのが担当患者実数。患者さんの顔と名前を一致させるため、デパートの開店時のように訓練室の入り口に立って「おはようございます。」をひたすらやっていましたっけね。我ながらよく、「いらっしゃいませ」と言わなかったものだわ。(^_^;)

夜もカップラーメンをすすりながらカルテ書きなどの残務整理に追われ、24時間、戦う女(?)をしていましたっけ。若かったなぁ…などと感慨にふけっている場合じゃありません。この無茶の連続で私の身体はバラバラになったのだから。

就職して2年目に腎盂腎炎になり、自分が務める病院に入院するとは。主治医は直属の上司である医療部長で担当患者が向かいのベッドに。「あれ、先生、どうしたの?」と聞かれてトホホ。

3年目には原因不明の七転八倒して準麻薬を使わなければいけないほど強い腹痛に始まり、足関節骨軟骨腫症で足首を手術、そのまた1年後にはこれまた原因不明の血尿で膀胱の手術と次から次へと原因不明の病気で入院、手術を繰り返すことになっていきます。神様が十字架を背負わせたのでしょうが、これはまだ序の口だったのですよね。神様のいけず。(-_-;)

信仰もバラバラ
一方、教会は今はI町の教会に移られたM牧師のもとへ。癌で顔の半分が変形しておられましたが、とてもきさくな先生で青年会の飲み会に出たり、牧師夫人は夜の祈祷会の時に(数えるほどしか出られなかったけど)ご飯を食べさせて下さったり。その牧師夫人が私が身体に不調をきたして入院したりなんだりしている間に癌で亡くなっていたとは…

覚悟しておられたのでお葬式で配ってほしいとご自慢の手作りチョコレートを300箱作り、そのパッケージもご自分で作られて形見として遺しました。とてもじゃないけど食べられずに、今でも御絵や御像を飾っている小さな祭壇にお供えしてあります。神様、あんまりじゃありませんか!どうしてこんな良い人をお召しになるのですか!?

これは私の想像ですが、だからこそ主はお召しになったのでしょう?今日ものうのうと生きている私達は落第生だから天国行きの切符はまだお預け。違いますか?
でもねぇ。頭ではそうわかっていても…

M牧師が退任されて、次に来た牧師一家はM牧師とは対照的でお説教は立派だけれど、行動があまりにもちぐはぐ。牧師夫人は「おはようございます」を言っても挨拶すらしない。お説教と日常生活が離反している感じがして、だんだん教会に行くのが苦痛になってサボり出したらたちまち「どうしたのか」と電話が来るので、ますます教会へ行くのが嫌になりました。

日曜出勤という正当な理由の時でも「安息日は礼拝を何においても第一にすべき。礼拝に出席しないことは罪」とまで言われました。まるでファリサイ派。私はこの教会に二度と行かなくなりました。ここから9年間もの長い流浪の旅が始まります。

閑話休題:理学療法士
英語でPhysical Therapist(PT)

PTという言葉は知らなくてもリハビリの訓練士とでも書くとピンとくるでしょうか?
病院で平行棒や杖を使って歩いたり、マットで寝返りや起きあがりの訓練をしている患者さんの傍らに白衣にスニーカーといういでたちで、号令をかけたり、叱咤激励しているスタッフをご覧になったことがあるかと。

事故や病気などでさまざまな障碍を抱えたかたの機能回復、維持、職場や家庭復帰などのゴールに向かって支援する仕事です。介護保険導入で医療のみならず、福祉、行政などに対する知識も求められ、白衣を着ずに地域で働くPTも増えていますが、この分野はまだまだ足りないのが現状。

多方面に渡る人々と連携するチーム医療でもあり、他にリハビリ分野でセラピストとしては作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)がいます。

私は主に地域リハビリと脳卒中に代表される脳血管障がいを得意分野としていました。家屋改造の相談にのり、設計図面を描くために建築の勉強までしました。目の悪い私は計測と設計図面を描くのが苦手で設計図面はもっぱらパソコンに助けてもらうことに。畑違いのCADまでやるとは。

流浪の民
有名な合唱曲と同じタイトルなのですが(^_^;)まさにここから9年間というもの、私の信仰生活は流浪の民。最初は札幌市内の日本基督教団の教会を1つにつき、1ヶ月単位で回って歩き、次はあまり遠くないプロテスタントの各教派の教会を回りました。

教派によってさまざまで「こんな賛美のしかたもあるんだ」とビックリしたり、ちょっとこれ、アヤシくない?みたいな所もあったり(あくまでも主観)とさまざま。どこでも優しい教会員に親切にされました。ただ、上手く表現できないけれど、何となくピンとこない。中にはしつこく、迎えに来る所もあって、嫌になったり、その場の雰囲気に飲まれそうな所もあったりで籍を入れるに至る所はありませんでした。

終いにはあちこちまわるのも億劫になって、体調がすぐれないのを理由に教会に行くこと自体をやめてしまいました。神様、私はあなたを棄てたのです。

でもこの経験が今の私の信仰に対する考え方を培ってくれたと思ってもいますから決して無駄な年月ではなかったと自分では思っていますが、神様は「勝手なことを」と苦笑いなさってます?

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
日本聖書協会 新共同訳聖書 ローマの信徒への手紙8:28

私に次の信仰の転機が訪れたのは1993年。これまた病気を通してでした。

犬も歩けばカトリックに当たる
ちと、苦しくて字余りかな?(^_^;)
1993年1月。股関節を包んでいる関節包内に得体の知れない物が詰まって、それを取り除く手術をしました。整形外科の先生曰く、とっても面倒くさい手術だそうで、4ヶ月半入院。半分以上は車椅子生活で、看護婦さんに「上手ねぇ」と誉められるわ、リハビリは後輩にやってもらうわとこれまたトホホ。

どうにか歩けるようにはなったものの、関節の可動域が元に戻らない!筋力は男子並という、ありがたくないお褒めの言葉をいただきましたが、可動域を広げるために主治医や後輩のPT(180センチを越す大男)が体重をかけて乗っかってくるからたまりません。ぎゃーーーーー!!!と毎日、叫んでいました。このままではPTに戻るのは難しいと言われて愕然。

退院後、PT室から職権乱用(?)で杖を借りて、毎日、ひたすら、歩行訓練と体調がおかしくなってから始めていた気功・太極拳をよたよたしながら続けました。手術から7ヶ月。暑い昼下がり、いつもより遠くまで歩行訓練をして、見知らぬ住宅街の中を歩いていたら、平屋の建物の壁に大きな十字架が。

カトリック真駒内教会と書いてある。そういや、プロテスタントの教会はいろいろ回ったけれど、カトリック教会には行ったことがないなぁ。でも、教会の扉を開ける勇気はなくて退散。

日常生活に密着した信仰
とりあえず、カトリックってどんな教派なのだろう?とカトリック関連の本を片っ端から読むことにしました。たまたま手に取ったのが「カトリックとプロテスタント」という本でむさぼるように読み、次いで、上智大学の百瀬神父様の公教要理のテープを起こした本を読んで、カトリックに興味を持ったのです。

同じキリスト教だけれど、今まで行ったプロテスタントのどの教派とも違うと興味は募り、たまたま見つけたあの教会に思い切って電話をしてみました。電話に出られたのは当時、主任司祭のA神父様。怯えながらもプロテスタントだが、カトリックの教義も知りたいと言うと「両方知ることはとても良いことだ。今、夏休みだけれど今月末からまた、お勉強(カトリック要理)が始まるからいらっしゃい。テキストはあげるから何も持って来なくてよろしい。」というお返事。

言われた通り、8月末からお勉強会に顔を出し始めました。驚いたことに最初に行った教団のM牧師をご存知だと仰る!このお二人は教派を超えてお付き合いがあったことを知って、これもやっぱり「オヤジ、やるな!」

この神父様は今は主のみもとにおられますが80歳半ばまで現役で御ミサをおたてになっていたかくしゃくたる方でした。神父は生涯独身だし、言わば「独居老人」なのだけれど当時でも神父生活50年以上のお話し(ダイヤモンド祝:叙階60年までこの教会で働かれました)はどれも私が9年間求めていた「日常生活に密着した信仰」そのものでした。

私がそれを申し上げると神父様は「いくら説教で綺麗ごとを言ってもダメ。それは頭の信仰でしかないから日常生活からかけ離れてしまう。人間の一番の罪は傲慢、エゴだ。でも人間は弱いからね。これが克服できたら即、聖人で生きていなくたっていいよ。だから主よ、憐れみ給えと祈り、聖母に『お母さん取り成して。』と取次ぎを願うのです。信仰とは神に対する人の道。私達は一生かかって旅をするのだ。そういう私もまだ全然ダメ。あっはっは。」

初回のお勉強会でそう言われ、この神父様のファンになってしまいました。お土産に金祝(叙階50年)記念で出版なさった本をいただいて、その本とお勉強の内容にどんどん惹かれ、9年あちこち回っても落ちつかなかったのに、ものの1ヶ月でカトリックになりたい!と思ってしまったのでした。

一緒にお勉強していた仲間で私以外にもプロテスタントの人が2人。私がカトリックになってからもカトリックに転会する人が相次いだのもなんだか不思議でした。厳しいかたでもありますが、この神父様と出会わなかったらもしかしたら、いまだに私はさまよっていたかもしれません。

御聖堂見物
勉強だけではあきたらず、ミサとはいったい、どんなもんかと土曜の夜ミサに出てみました。初めて御聖堂(おみどう)に1歩、足を踏み入れた印象…「臭い」(-_-;)何、この匂い。大祝日やお葬式などの時に使うお香の匂いが染み付いていたのです。

正面には十字架の上に磔になったキリストの御像。「うわぁ、生々しい。」向かって右に聖母子像、左に聖ヨセフ像。祭壇前には綺麗な花が生けられている。今まで所属したり、回ったプロテスタントの教会では偶像崇拝だと、そのどれもがなかったので珍しくてしげしげと見つめていました。

祭壇後ろにはキンキラキンの箱があり、赤いランプが付いている。お御堂の入り口には水が入った器。何、これ?眺めていたら、夜ミサにあずかりに来た和服を着てヴェールを被った信者のかたに「初めて?」と声をかけられました。そうだと答えると「マネをして。」とその水が入った器に指を突っ込んで十字を切る仕草。しろと言われてその通りに。右手の三本の指を合わせて額、胸、左肩、右肩。

ああ、これ、映画で見たことがあるぞ。「俺達は天使じゃない」だっけ?脱獄囚2人が修道士に間違われたのを幸いに修道院にもぐり込んでのどたばたコメディ。するとあの脱獄囚が足かせの鎖を切った懺悔(告解)とやらをする電話ボックスみたいなのは後ろにあるあの扉かな?…もう、キョロキョロ、ウロウロ。

薄暗い御聖堂で御ミサの始まり始まり。何が何だかわからないので見よう見真似。まぁ、カトリックのミサというのは「主の平和」とお辞儀をしたり、跪いたり(現在は跪かない)と忙しいこと。

「聖書と典礼」というミサで読まれる聖書の個所やお祈りが書いてある表紙がカラー印刷で綺麗なパンフレットも物珍しい。プロテスタントの週報は手が黒くなるガリ版の所も多かったし、聖句は朗読個所しか書いてないのがほとんどだったから。

へええ。カトリックって重い聖書を持ち歩かなくていいのか。いいなぁと感心して返そうとしたら「持って帰っていいのよ。夜ミサは人数が少ないし、オルガニストもいないから、日曜のミサにおいでなさい。」と言われて「はい。」と元気良くお返事。(^^;)鵜の目鷹の目の物見遊山そのものでした。

閑話休題:お気に入り映画
私のお気に入りでレンタルビデオ屋にあるメジャーな映画をご紹介しましょう。
上に出てきた「俺達は天使じゃない」はロバート・デ・ニーロ主演。笑えます。

同じくコメディの「天使にラブソングを」はある意味、現代のキリスト教を風刺したものでしょうがクリスチャンじゃなくても笑えます。

ミュージカルの大御所、「サウンド・オブ・ミュージック」中学の時に学校の英語の授業で映画館に見に行き、学校へ帰ってから、「エーデルワイス」を暗記して歌わされたおかげで大学の英語のスクーリングで満点をもらったという。(^_^;)トラップ一家は実在の人物。二度と戦争が起こりませんように。

正統派(?)として私のお気に入りは「ブラザーサン・シスタームーン」映画は知らなくてもこの美しい曲を聴いたことがあるかたは多いかと。アシジの聖フランシスコの物語。

数年前に再映画化された「汚れなき悪戯」この主題歌は中学の音楽の教科書に載っていて歌いました。白黒映画でした。マルセリーノが可愛かった。

子供の時に見て痛烈に記憶に残っているのが死んだ虫や小動物の十字架を立てて遊ぶ「禁じられた遊び」ナルシソ・イエペスのギターで有名。今見ても涙が。ラストでポーレットが「ミッシェール!」と叫ぶのが耳についています。反戦映画。今もあちこちで戦争が起き、現代のポーレットやミッシェルがいるかと思うと胸が痛みます。

最後にお気に入りではないけれど(^_^;)「ゴッドフォーザー」言わずと知れたマフィアのドンの話しですが、この題名は直訳すると「代父」です。なぜラストシーンが赤ちゃんの洗礼式なのかカトリックになるまで謎でした。この歴史的いわれなどを真駒内教会のお勉強会で神父様が解説して下さり、映画を見直しました。

キリスト教圏の本や映画を見る時に雑学程度でも良いからキリスト教のことを知っていると何倍も楽しめるのは確かです。

隠れカトリック
カトリックは集会の始めに「主の祈り」終わりに「めでたし」(アヴェ・マリア)を唱える習慣がありますが、お勉強会の初回でこのめでたしを私がいきなりみんなと一緒に唱えたから神父様がプロテスタントにはないお祈りなのにとビックリなさいました。言われてあっと気がついたけれど、高校時代に合唱部でアヴェ・マリアも歌っていたから、その訳として暗記させられていたもの。

さらに日曜の御ミサにも出るように。典礼聖歌集の「賛歌」の中に聞き覚えのあるハーモニー構成の曲が。作曲者を見るとこれまた高校時代、NHKコンクールの課題曲になった故・高田三郎先生が書いた曲。

そんなこんなでだんだん慣れてくると、気持ち良くなって聖歌をみんなと一緒に歌っていました。ある日、御ミサが終わると前に座っていた人に「あなた、声楽やっていたでしょ。」と声をかけられました。「え!?あ、でも、ずっと昔のことで今はもう…」言い終わらないうちに腕をつかまれ、御聖堂の外に連行。

11月に教会の献堂30周年記念式典があり、バッハのコラールを歌うから加勢してほしいと言うではありませんか。「そうそう。秋分の日に温泉付きバス旅行があるの。お弁当持参で入浴料以外はお金いらないから一緒に行きましょう。はい、決まり。」…ただ呆然。

何が何だかわからないまま、すっかりそのおばさまのペースに乗せられ、バス旅行へ。このおばさまYさんは聖歌隊員をご夫婦でしていらして、運転手付きで個人でバスをチャーター。バスガイドはYさん。芸達者で抱腹絶倒のガイドぶり。

で、突然「みなさん!聖歌隊ニューフェイスさんです!Hさん、ソプラノに1人追加ね。」と私はまだ返事をしていないのに紹介されてしまった。Hさんとは聖歌隊指揮者。なんと、このバス旅行、聖歌隊主催のものでした。

「あ、あの、私、もう長年、歌から離れているし、第一、カトリックじゃないんですけど。」「君の声は聞こえていたよ。発声ができているから大丈夫。歌が好きならカトリックもヘチマもあるもんかい。バスの中では逃げられないねぇ。」と指揮者はニヤニヤ。…何だかはめられた模様。(^_^;)

行き先は空知管内の「雪の聖母園」という18歳以上の知的ハンディを持った人達が住んでいる施設。年に1,2度、草むしりやガラス磨き、裁縫などのご奉仕をしていたのでした。帰りに近くのカトリック系特別養護老人ホームも見学。御聖堂で「いつくしみ深き」を歌い、温泉に入って聖歌隊の方達といきなり裸の付き合いまでしました。
その日から私についたあだ名が「隠れカトリック」

…これって神様、あなたの仕業?

あれ、だあれ?
バス旅行の後、御ミサ前に御聖堂にいったん置いた私の荷物がない!キョロキョロ探していたらYさんが「あなたの席はここよ、ここ!」と聖歌隊のソプラノパートの席。もう、諦めるしかないようで。(^_^;)

再起不能とまで言われたのにどうにか仕事にも復帰。献堂30周年記念式典に備えて聖歌隊の猛練習が始まりました。指揮者はアマチュアだけれど指導がお上手で私は十数年ぶりの本格的な合唱の練習とこれまた懐かしいバッハのコラールを歌えることが楽しくなって御ミサ、練習、お勉強と毎日のように教会通い。

1993年11月3日。献堂30周年記念ミサが司教様の主司式で行なわれました。キンキラキンの祭服、杖、帽子という正装の司教様がこれまた私には珍しくてたまりません。歌いながら司教様ばかり見ていました。御ミサの後に記念撮影。「何やってるの、早くいらっしゃい!」と私も腕をつかまれてひな壇の上へ。教会員でもないのに「30周年のしおり」に写っています。(^_^;)

御ミサの後の記念式典のビデオを見て教会員がいっせいに「あれ、誰?」なんと、デッカイ口を開けて聖歌隊の最前列で歌っている私の顔がアップになっていた!神父様は顔をくちゃくちゃにしてクスクスお笑いになるし。撮影したかたがダビングして私に下さいましたが今見ても恥ずかしいこと。

再洗礼
待降節(イエス様の御降誕をお迎えする期間)になり、お勉強会で神父様が洗礼の意思を確認なさいました。私にも「あんたはどうする?」とお聞きになりました。他のかたはともかく、私は8月の最終週に加わったばかりでまだ3ヶ月半。

普通、1年前後勉強会に出なくてはいけないと聞いていたのでビックリしてボーっとしてたら「カトリックになりたいのか?」と重ねてお聞きになるので「なりたいです。でも、私はまだ3ヶ月半しかお勉強していません。」「カトリックになりたいならそれであんたはもういい。ただ、前の洗礼はどんな形式だった?」

後でわかったことですが、カトリックで教団の洗礼は有効と認められているし、「洗礼は一つ」と聖書にあるように本来なら赦しの秘蹟(告解)を受けて「転会式」で済むハズでしたが前の洗礼は牧師が指に水をつけて按手(頭に手を置くこと)する形式だったので「滴礼が望ましいのと、前の洗礼がもし無効なら云々…と唱えるのも面倒くさいから、今度はしっかり聖水をかけて有効にしてやる。」と再洗礼になりました。

それから代母だの、洗礼名選びだのでみんなきゃーきゃー。代母は実母とそれほど歳が違わない聖歌隊のソプラノパードリーダーさんがなって下さり、ヴェールは神父様ったら「レースのカーテンをミシンで縫えば?」なんて仰ったけど、ミサのイロハを教えて下さったUさんが買って下さいました。(まさかそれが形見となるとは)

洗礼名が私を始め、みんな迷いに迷う。神父様が聖人伝のダイジェスト本を3冊も貸して下さったけど、だいたい、聖人からしてプロテスタントにはないからわからないし、「聖母は名前をつけなくたって守って下さるのだから」とマリアの名をつけるのを好まれない神父様なのでよけい、みんな迷う。「迷ったら誕生月に記念日がある聖人の名前をつければよろしい。」

ところが私が生まれた6月はペトロ、パウロ、アロイジオ…みんな男の人ばかり。代母さんに相談したら「確かに男性ばかりねぇ。6月12日生まれ?じゃあ、洗礼者聖ヨハネの誕生日が24日だから2をかければ霊名日になるから忘れないし、男性名にAをつけると女性名になるので”ヨハンナ・バプティスタ”にしたら?」これで私の洗礼名が決まり!

イエス様の従兄弟でありながら、あくまでも自分の分際をわきまえて、”露払い”の役に徹してイエス様に洗礼を授け、黙って首を切られた洗礼者聖ヨハネの生き様は好きでしたから守護聖人になっていただけて嬉しいし、ハンドル名にもしています。

福音記者聖ヨハネ(ヨハネ・エヴァンジェリスタ)のヨハンナはたくさんいますが、洗礼者ヨハネの名前をつける女性はあまりいないようです。だから後に東京の堅信の代母さんが同じ洗礼名だと知ってビックリ。

1993年12月24日午前10時
洗礼式をミサと切り離す主義の神父様でしたから代父母以外はガランとした御聖堂で他の4人のお勉強仲間とともに信仰宣言以外はすべてラテン語での洗礼式でした。今ではこの形式での洗礼式はカトリックでもないでしょう。これでもかというほど聖水をたくさんかけられました。この日は生涯忘れません。神父様からロザリオやら御像やらの”カトリック・グッズ”もたくさんいただいて大荷物。

夜はクリスマス夜半のミサ。聖歌隊員が「あれ?まだカトリックじゃなかったの?」なんて笑いながら祝福してくれて「聖歌隊一同より」とお祝いのヴェール入れまでいただいて感無量。「今度は酒の洗礼だ!」と祝会で「聖歌隊」と書いた一升瓶が出てきたのにはビックリ!所属していたプロテスタントの教会では教会内でお酒を飲むなんてとんでもないことでしたから。

飲みながらまた、四部合唱。そこへくわえ煙草の神父様も加わって「オー・タンネン・バウム」(もみの木)、「シュティーレ・ハナト、ハイリゲ・ナハト」(きよしこの夜)をドイツ語で歌ったりと楽しい夜を過ごしました。

神様は私を聖書にある放蕩息子(女だから娘か)のように毎日、帰りを待って下さって、私を救うために上に書いたことをなさったのでしょうけれど、酒好きの私の正直な感想を申しましょうか?「カトリックって何て楽!」

わー、怒らないで下さいまし。

大公の聖母
カトリックになるにあたって1つ問題がありました。教籍を函館の教団の教会に置きっぱなし。しかもその時、父は監事をしていました。元々「信仰は個人の自由」という考えの父でしたが、監事会の中で牧師や他の監事から何と言われるか。

でも、私はカトリックになりたかったので父に電話。「わかった。」と一言。洗礼式の後、教会からいったん帰宅したら「洗礼おめでとう。」と父から留守電メッセージが入っていました。

後で聞いた話しですが、さすがに父も牧師になかなか言い出せずに礼拝の前に牧師を呼び、打ち明けたらその当時の牧師先生はとても理解のある先生で「落ちつく所ができて良かったですね。」と言って下さり、厳しくて口うるさい監事もいる(こらこら)監事会でも議題プリントの一番最後に私の名前を載せて「転出」とだけあって、誰も異議を言う人はいず、父がむしろあっけにとられたとか。

そのまた数日後、私の職場に「壊れ物注意」のシールが貼られた宅急便が届きました。私が好きなラファエロの「大公の聖母」の大きくて立派な額入りの御絵でした。送り主は函館の教会の牧師夫人。「カトリックではこういうのを飾るのでしょう?」と。寝室の祭壇もどきに大事に飾っています。

後で教籍や教派を変えることで悩んだり、トラブったりする人を何人も見て、みんなから祝福されてすんなりカトリックになれた私はラッキーだったとも思いました。でもね、神様。同じ神様を信仰しているのにどうして枝葉末節に拘ってごちゃごちゃ言ったり、喧嘩になったりするのでしょう?

そんなことをして、一番、お悲しみになるのは他の誰でもなく、神様ですよね。私は一度棄てたあなたに(二度とあなたを棄てないという保証はありませんが。;^^;)見出され、死者の中から復活させて下さった手段がたまたま「カトリック」という教派で、私はすんなり溶け込めて、安らぎが得られ、居心地が良い(^^;) ものですからカトリックになりましたけれど、どの教派が一番で、どの教派は間違いだなんて言えないと思いますし、それを同じ人間が批判し合うのは傲慢だとも思っています。

それぞれさまざまな歴史的背景や風俗、習慣、その他もろもろの事情で分かれたわけですから、お互いに違いを認め合い、枝葉末節を議論するのではなく、神様が私達にお命じになったことにもっと目を向けなければいけないのではないかと。

閑話休題:御像、御絵、聖人
カトリックでないかたには誤解されるのですけれど、カトリックではイエス様やマリア様の御像や御絵を飾ったり、聖人のメダイを身につけたりする習慣があります。でもこれはその「物」を拝んでいるわけではありません。みなさんは家族の写真を飾ったりしませんか?でもそれを拝んでいます?まさかそんな人はいないでしょう?(笑)大切な人をいつも見ていたい、思い起こしていたい、身近に感じていたい…それと同じです。

ロザリオもファッションで首から下げている人がいてありゃりゃと思いましたが、あれはお祈りの数を数える「道具」です。ロザリオは「バラの花冠」という意味で、イエス様のご生涯を黙想しながら神の母であり、最愛の我が子が十字架にかかるのを立ち尽くして見届けたマリア様へのお祈り1回を1輪のバラの花に見たてて霊的花輪をお捧げするというもの。数を唱えればいいというわけではもちろんありません。

ついでに聖人に関しても。聖母以下、すべて私達と同じ人間です。でも、私達は弱いから誰かから覚えられているとか、誰かが自分のために祈ってくれると思えると少し、元気になりませんか?私達と同じ弱さをもった人間でも、今は主のお傍にいて、私達のために祈って下さるのが聖人です。

カトリックで正式に認められた人だけが聖人と呼ばれます。私達はそのかたたちを信仰のお手本として、倣うことができるように神様への取次ぎ(お祈りの加勢)を願います。洗礼名も特にあやかりたいかたの聖人の名をいただきます。私の場合は上に書いたように洗礼者聖ヨハネと幼きイエスの聖テレーズのお二人の名をいただいています。日本人の聖人がいるのもご存知ですか?

いざ、トラピストへ
1994年1月。1年前に股関節の手術の時に骨を固定するために入れたピンの除去と今度は膝関節にわけのわからないものが詰まったのでそれを取り除く手術をいっぺんにしました。本当に五寸釘が3本も身体に入っていた!(@_@)退院後、吹雪の中、杖をつきながら教会は休みませんでした。行きたくてしょうがなかったから。

そんなこんなでカトリックになってちょうど1年。トラピストの神父様から招かれたからクリスマスをトラピストで一緒にお祝いしようと青年会のIさんが実家がトラピストからそう遠くない私に声をかけてくれました。「えっ、だってあそこ、男子修道院でしょ?女性が中に入れるの!?」「御聖堂だけは入れてもらえるのよ。」ヤッター!この年は24日が土曜日にあたり、暦上、ラッキーな年でした。

24日の朝、「お話ししにおいで」と呼ばれ、車に乗せてくれた父と3人で当別教会のボロい(^^;) 伝道館へ。部屋を暖めて迎えて下さったのが現在も当別教会主任司祭であるベルクマンス小山神父様。(ベルクマンスは修道名)子供の時に見たホルスタインのような白黒の服はトゥニカという裾の長い白いワンピースにスカプラリオという黒の肩衣という組み合せだったのでした。そして革の帯をしめます。でもこれ、ペラペラの薄い綿よねぇ。おつむりはクリクリ坊主だし寒くないのかな?

南西沖地震で当別教会は亀裂が入り、解体したので瓦礫の山に雪が積もってる。私達に新しい教会の設計図を見せて説明して下さいました。この教会で洗礼を受けた東大工学部の教授が設計なさったとか。素人の私にでもとても凝った教会を作ろうとしているのがわかりました。後で自分がここの教会員になるとはこの時は思いもしなかったけど。

とても気さくな優しい神父様で(修道者はいつ、いかなる時もいっさい口をきかないのかと思っていた。もちろん今もトラピストは特に沈黙を守る修道会だけど)帰りにはずっしりと重くて大きなパン、りんご、牛乳をたくさんお土産にいただいちゃった。もちろん、すべて、トラピスト産。それらを食べて夜を待ちます。

午後11時30分。ミサにあずかる人のために修道院のゲートが開けられ、ドキドキしながら中へ。入ってすぐ左側にパパ様(ローマ教皇)の大きな額。そして男子修道院らしく(?)何やらごつい馬小屋の飾り。

時間があったので小山神父様は小聖堂や客舎の食堂も見せて下さいましたが、小聖堂に飾られていた切り絵を見て私は目がクギ付けに。それは宮田雅之さんの「磔刑」の切り絵。しかも本物!お願いして写真を撮っちゃった。(ミーハー)

クリスマス夜半のミサ
御聖堂に神妙に入っていくと、信者席はたくさんの人!やがて一人、また一人とフードがついた白くて長い祭服を着た修道士が音をたてずに御聖堂に入ってきます。突然パイプオルガンが鳴り、左右に別れた修道士達は交互に何やらメロディに乗せて唱え出した。ミサの前の聖務日祷だったのです。

舟形の御聖堂はまるでお風呂場のように声が反響して何とも幻想的。でも、正直言ってこの時はカトリックになってまだ1年だったし、修道院という所には縁もなかったから聖務日祷も「教会の祈り」を後ろの席の信者さんに渡されてもどこを唱えているのやらわからないし、なんだかお経みたいで(^_^;)私は御聖堂を見まわすことに徹していました。(^^;;

御聖堂の上部には野良着のような服を着た日本的な聖母子像があり、鳩の形の綺麗な聖櫃(御聖体を安置する箱)が鎖でぶら下がっている。「栄光は父と子と聖霊に…」みんな立ちあがっておじぎしてる。あわわ!ワンテンポ遅れてマネ。引き続いてミサ。この時のことは興奮してよく覚えてません。主司式は修院長様。他にも7、8人の神父様がいらっしゃるので声をそろえていっせいに奉献文を唱える様は迫力!

修院長様が御聖体を捧持して我々、信者席の所までおでましになり、直々に御聖体を下さいます。「キリストの体」「アーメン」…御聖体を受けたのはいいが、手のひらに乗せられた茶色くて大きな御聖体にビックリ!これ、一口で食べるの?はばけたらどうしようと、マジで躊躇したくらい大きなもの。しかも上あごにくっついちゃった。指を突っ込むわけにもいかないしと貼り付いたままに。(^^;)他の教会のと違って溶けないんだなこれが。このホスチアも修道院製で、修道院の御ミサと大千軒岳登山での殉教者記念ミサでしか、いただけないもの。

「昔は噛んではいけないという考えが当たり前だったが、今は違う。御聖体はしっかり噛むこと。」と私は教えられていたので噛んだらパリパリと音がする。おせんべいのようでほのかな甘味が。後で聞いた話しによると、水分の含有量を少なくし、小麦粉をケチらないからで、しかも精製していない小麦粉を使うから茶色なんだそうな。

御ミサが終わると玄関前ホールで「しずけき」(きよしこの夜)を参列信者さんと歌って解散。他の修道士はさっさと寝室へ向かいますが、小山神父様は最後の一人まで毎年、お見送りして下さいます。帰りぎわ、「お父さんはもう、3年もクリスマスに来ているよ。」と言われてビックリ!3年ということは私がカトリックになるはるか前から父はトラピストに出入りしていたということ?…これまた、不思議なご縁だったのですが、私ばかりか、父まで隠れカトリックだったなんて。(-_-;)

実家に帰ったら午前1時半を過ぎている。でも私達はミサの興奮冷めやらず、飲むは、しゃべるわで寝たのが4時!しかも翌日、今度は函館の元町教会の午前10時半のミサにまで行って、その夕方の特急で札幌へ帰ったのだからタフだったというか、若かったというか。(^_^;)

ありのまま
御ミサでは聖歌隊、御ミサが終わるとプロテスタントにいた時と同じように日曜学校のリーダー、仕事帰りはカトリック入門のお勉強会出席と忙しくも楽しい時期でもありました。

どういうわけかプロテスタントから転会希望者が次々とお勉強会に入ってくるので神父様はプロテスタント出身の私とわざと問答をなさいました。札幌を離れるまで3年近く出続けました。この時のメモが今でも私の宝物の1つです。日常生活に密着した信仰の土台をこの神父様が植え付けて下さいました。

夏にはちょいと平均年齢が高い(^^;) 青年会の仲間とバーベキューパーティをしたり、富良野にラベンダーを見に行ったり。教会は神聖な場所です。神様を賛美し、許しを願い、また日常生活へと派遣されて行く場所。

でも誰かが「楽しくなければ誰も来ない。」と言ったけれど、私もある意味そうだと思いました。礼拝や御ミサに出席することを「義務」「ねばならない」と捉えると私は苦痛になります。そんな気持ちで口先だけで賛美されたって神様は全能のおかたなのだからお見通しですよね?

だからといってサボっていいとは言いませんが、私は「ありのまま」の自分を神様に差し出し、癒していただき、平安をいただく。それがどうしてもできない時には無理をしないでひっそりと神様とお話しする。これが私のスタンスなのです。目くじらをたてる人も当然、いるでしょうけれど。

聖水をかけられたからといってまったく違う自分になるわけではありません。教会も弱い罪ある人間の集まりです。いろいろあります。1つの信仰に結ばれた共同体という以外は会社や家庭と同じなのです。どこも教会離れが進んでいるとも聞きます。

教会って何だろう?信仰って何だろう?宣教って何だろう?クリスチャンってどういう人達なんだろう?…神様、私は今までもこれをずっと考え、あなたに問い続けてきました。今後もそうでしょう。お付き合い下さいませね。きっと正確な答えなどないでしょうし、「これが正しい」と思うこと自体、傲慢だと私は思っています。違いますか?

キリストにはかえられません
聖歌隊は月に1度会議を開くことになりました。その終わりに輪番で自分が好きな歌を選曲し、メンバーに指導して指揮をするという面白いおまけつきの会議。その第1回目として「楽譜を見て綺麗な歌だと思ったんだけど、誰か歌える人いない?」と配られた楽譜は日本基督教団讃美歌の第二編195番「キリストにはかえられません」ちょうど札幌でレーナ・マリアのコンサートがあった直後でした。

「そういや、あなた、プロテスタントだったから知ってるよね?」げっ!!(^^;;
レーナ・マリアのコンサートもみんなで行って私が懐かしそうに口ずさんでいるのをしっかり見られてもいましたから。おかげで第1回目は私が歌唱指導でタクトを振るハメに。「へえ、綺麗な歌」「プロテスタントにも良い歌がたくさんあるよね」「また、こういうの教えて」オルガンなしでしかもパートが二部の楽譜だったので二部合唱にして会議はお開きに。

札幌の職場には11年勤めました。お年寄り専門の病院で1年勤めたら「まぁ、こんなもんでしょ。」3年勤めたら「おお、もったな。」というのがこの分野。それほど長続きしない中で11年というのは「長い」部類に入るのです。

私はお年寄りと札幌が好きだったのと、父の経済的援助をしなければならず、身体が壊れようと、労働条件が悪かろうと、「仕方ない」と自分に言い聞かせて身体が出し続けていたはずのシグナルを無視してきました。でもこれは間違いだということに後ほど気づかされることになります。

でも、さすがに11年のキャリアの違い、担当患者数が4倍も違うのに基本給が新卒者と1万円しか差がなくなることにとうとうキレて退職。地域リハビリもすでに手がけていましたが、東京で区からの委託で地域リハビリ専門の福祉保険センターに就職が決まり、住み慣れて大好きな札幌と真駒内教会を離れることに。

私が真駒内教会の最後の御ミサにあずかった後、聖歌隊員はそのまま御聖堂に残れと指揮者に言われ、何だろうと思ったら、「聖歌隊一同から新しい生活に踏み出す君への手向けだ。君に隠れて練習したのを聞いてくれ。」となんと会議の第1回目で歌った「キリストにはかえられません」をみごとな四部合唱で歌ってくれました。いつの間に!この真心のこもったプレゼントに涙が出ました。この後、私はどこの教会に所属しても聖歌隊員として歌い続けることになりますが、この真駒内教会の聖歌隊がいろいろな意味で最高でした。

私が札幌を離れた直後に残念ながら聖歌隊は解散させられて、メンバーもバラバラになってしまいましたが真駒内教会聖歌隊の楽譜は今も私のパソコンの横の本棚にあります。もちろん、「キリストにはかえられません」の楽譜も。今でも時々口ずさんでいます。

閑話休題:レーナ・マリア
ゴスペル・シンガーとしてご存知のかたも多いでしょう。彼女は生まれつき両腕と片足の半分がありません。お母さんはOT(作業療法士)ですが、特別な自助具を使わず、工夫と努力で何でも一人でこなします。パラリンピックの水泳の選手でもありました。親日家でもあり、毎年、全国縦断コンサートを開き、本やCDもたくさん出しています。

上に出てきた「キリストにはかえられません」や「一羽のすずめに」などメジャーな讃美歌を日本語で歌ってくれます。音楽大学の声楽科を卒業しているだけあって、720席が満席の会場でノーマイクで「アメイジング・グレイス」を歌った声量はさすが!

彼女の澄んだ歌声はクリスチャンならずとも人の心を揺り動かします。なぜなら「生きる喜び」がそのまま歌に表れているからだと私は思います。彼女は人とは違っているけれど自分が「障碍者」ではあっても「障害者」だとは思っていないでしょう。結婚もした普通の素敵な女性です。

ヨハネがヨハネにつかまった!?
「すぐに籍を入れないで、いくつか回りなさい」と代母さんから知恵をつけられ、上京後、近隣のカトリック教会巡り。カトリックは教派がないのでどこの御ミサにあずかってもOKというのは楽。

アパートから自転車で10分かからない所にあったのでまずそこへ。ミサの時間がわからずに「何時からでしょうか?」と尋ねたらそこのおじいちゃん神父様は私を頭のてっぺんからつま先まで眺めてからアゴでしゃくって「あそこに書いてある」その掲示板が見えないから聞いているのに!東京の人間は神父でもこうなのか!?カチン!

御聖体拝領は函館の教団と同じように聖体拝領台に1列に跪いてキンキラキンのお盆を持たされ(御聖体を落とさないように)イヌのように口を開けて待って受けるという形式。札幌で「世界中、どこへ行っても口でも手でもどちらでもよろしいが赤ちゃんを抱いているとかいう以外では手で受けること。」と教わっていたのにここは手で受けてはいけないという。しかも典礼聖歌集はいっさい使わず、カトリック聖歌のみ。

なんせこんな形式の御ミサには北海道ではどこでもあずかったことがないのでビックリ。後で知ったことでしたが、ここは東京でもとりわけ古い教会で歴史と伝統が渦巻いているらしい。今はどうか知りませんが。2回行っただけでパス。それから近隣のカトリック教会をかって、流浪した時のように1ヶ所につき、1ヶ月〜1ヶ月半の周期で回りました。

もう木枯らしが吹く季節。御ミサが終わると玄関のドアを開け放ち、寒い中に立って帰る1人1人に声をかける白髪のおじいちゃん神父様が司牧している教会に行きました。土地柄、教会員の年齢層も高く、ミサ出席人数が百人前後と少なく、カトリックにしてはこじんまりした教会。

ここはプロテスタント教会のようにミサの終わりに初めて来た人、久しぶりの人の自己紹介の時間がありました。そういう小さな教会だから一見さんは目立ちます。でも私は小さくなって名乗り出ませんでした。帰ろうとしたら「あなた、どこから?お名前は?」と神父様に声をかけられました。神父様のほうから声をかけられたのは5ヶ所目のここが初めて。

名乗ったら所属教会を聞かれたので籍をまだ入れていないことを言うと「では、ウチへお入れなさい。」とニッコリ。「はあ、考えておきます。」とだけ返事をしてその日は帰りました。翌週、教会に入ったら後ろから私の名前を呼ぶ声がする。振り返ったら神父様。なんと1度で私の名前を覚えておしまいになっていたのにビックリ。さあ、それからが大変。御ミサが終わると毎週、玄関で待ち構えていて「ウチへ籍をお入れなさい」攻撃。まるで関所。(^^;)これが籍を入れるまでの約1ヶ月半続きました。

しかも11月1日の諸聖人の祝日の夜ミサに行ったら、教会員から「第二朗読をお願いします。」「へ!?私、ここの教会員じゃ…」あらら、御ミサが始まっちゃったよ。しょうがないので言われるままに朗読。さらに御ミサが終わったら、聖歌隊指揮者にまでつかまった。「声楽をやっていましたね?来週から聖歌隊で一緒に歌いませんか」あちゃー!(>_<)で、玄関ではまた関所…私はとうとう根負け(?)して「どうぞよろしくお願いいたします。」と転出証明書と洗礼台帳を神父様にお渡ししました。

転出証明書の真駒内教会主任司祭のサインを見て「ああ、この神父様知ってますよ。お元気ですか?」へ!?世の中狭い。私が東京での流浪生活を終えて籍を落ちつけたのは上京から8ヶ月が経っていました。ここが今の所属教会です。

去年、教会員やこの神父様を良くご存知の他の神父様にこの話しをしたら「珍しい!」といっせいに言われました。あまのじゃく(?)のかたで、ウチへ来いなどとは仰らない神父様だったから。「同じ霊名で引き合ったのかもよ?」とニヤニヤ笑われる始末。神父様も洗礼者ヨハネだったのです。

祭服を脱げば普通の穏やかなおじいちゃんなのだけれどたくさんの本を訳し、神学者としても有名で”世界の”と二つ名で呼ばれ、「生きた聖人」とまで囁かれる神父様で人事移動で教会が変わると移動先へ追っかけ(?)までする信者さんがいるほど慕われているかただということを後からあちこち(トラピストでも有名だった)で聞いてたまげてしまったけれど、私はそんなことはまったく知らずに籍を入れたのでした。

真駒内教会に司教様がおいでになって堅信式をするからと代母さんから連絡がありましたが(3年に1度司教様をお呼びするのでまだ堅信を受けていなかった)間の悪いことにこの日は日曜出勤日で断念。翌年、東京のカテドラルで堅信を受けることになりましたが、まさか札幌から代母さんを呼ぶわけにもいかず、こちらの教会員になっていただくことに。私の代母を引き受けて下さったかたが、これまた後から知ったのですが女性では珍しいと言われていたのに洗礼名が私と同じ!あらら。だから私は代母さんが二人います。

パソ通にハマる
私は札幌でワープロ専用機を使っていたのでタッチタイピングができるというただそれだけで(目が悪いからタッチタイピングができないと話しにならない)仕事でいやいやパソコンを使わされていました。だからパソコン歴「だけ」はそれなりに長いです。

カルテ書きなどの他に患者さんのデータ入力、学会論文のためのデータ解析などが病院に居残ってはこなしきれず、自分でパソコンを買い、家で入力して翌朝、フロッピーを病院に持って行くという生活でしたから、パソコンそのものをいじるのは面白いとは思ったものの、誰も教えてくれる人もいなければ、その当時は今と違ってビギナー向けの解説書も医療従事者用のソフトも乏しく、MS-DOSの真っ黒い画面に向かって訳のわからないコマンドを打ち込むのは苦痛でしかありませんでした。

札幌を離れる時にパソコンのことをよく話していたドクターが「メールをやり取りしよう」とプライベートのメールアドレスを教えて下さいました。渡されたアドレスはニフティ・サーブ(現@ニフティ)のIDでした。まだインターネットは普及しておらず、パソコン通信全盛期でドクターのほとんどがニフティ・サーブに入っていたので、私もニフティ・サーブに入会。

パソコンはこの時2台目でWindows3,1になったばかりのPC−98。モデムを内蔵していないので上京してさっそく噂に聞いていた秋葉原の電気街とやらに行って激安モデムを購入。MS-DOSの時に北海道新聞社が開いている「オーロラネット」というのでちらりとやってはいましたが、電話代がかかってほとんど使わなかったのでその当時では最高速のに買い換えました。

でも半年間はメールしか使っていませんでした。しかもモデムに付いていたおまけの通信ソフトを使っていたからオン書き!ある日、麹町教会の御ミサの帰りに女子パウロ会のお店を覗いてもらったパンフレットにキリスト教の会議室があることが書いてありました。それがニフティ・サーブのフォーラム「ハレルヤ・ハレルヤ」(FLORD)でした。

とりあえず、オン書きで自己紹介。ところがモデムの速度にパソコンがついていけず、文字化けはするわ、オン書きだわと今なら笑い話しですが、四苦八苦。でもレスがつくことが面白くなったのと、親切に教えてくれる人がいたおかげでオートパイロットソフトを入れてから、電話代が3分の1になったのとで、すっかりハマってしまったのです。

東京にいた1年半の間、ひたすら書きまくっていました。今はここに書かなくなりましたが、今でもたまにまったく知らない人からその当時の過去ログをあらったとかで私に質問メールがきたり、最初から洗礼名をハンドル名にしていましたから「ヨハンナさんってニフティの『ハレルヤ・ハレルヤ』の?」と聞かれるくらい、書いていたんですねぇ。自分では目立っていた自覚はまったくないんだけど。(^^ゞ

東京の職場は半官半民で行事があると日曜出勤もあるものの、完全週休2日、大学の学位と社会福祉士の資格を取ろうと、通信教育を受けていましたが、職場に同じことをしている人が他に2人いて(1人はなんと札幌でアパートの向かいに住んでいた同期のOTでこの偶然に吃驚)、スクーリングのための連続休暇が取れるのと、残業したら手当がきちんと付くし、アパートは職場の目の前だったのとで、家庭訪問に行く時には自転車に乗らなければいけないこと以外は札幌に比べたら楽だったせいもあり、この1年半は病気のことを忘れていました。

役人にはなれない
地域リハビリを手がけるPTとしてはここでとても勉強させてもらいました。区役所のワーカーさん、保健婦さん、病院、在宅介護支援センター、訪問看護ステーションなど他分野のかたがたと連携しながら利用者さん(在宅なので患者さんとは呼ばない)や家族を支援する。

特に苦労したのは自転車と建築に関して。普通に歩いていても凹凸がわからずに転ぶし、東京は電車とホームの間が広くあいているので間に足を挟んでバッタリ倒れたり、突き飛ばされたりするのは日常茶飯事なのにその視力で自転車に乗ること自体無茶と言えば無茶なのですが、この区は道路拡張が都も区も手がつけられないほど住宅が密集して車が安心してすれ違える道がどれほどあるか。だからバス道路も限られていてバスもない。移動は自転車かバイクしかないのです。

今振り返っても、我ながらよく無事だったと。しかもいりくんだ迷路のような道路ばかりで家庭訪問は大変。しかも自転車の荷台にシャワーチェアーなどの自助具をくくりつけて。OTなどと複数人で行く時はついていくだけで必死。

家屋改造の相談にものっていましたが、北海道とは建築様式が違うから採寸だけでも四苦八苦。しかも建築の知識はまったくなし。でも、知らないではすまされない。改造図面も描かなければならない。図面は職場のMACのお世話になることに。でも利用者さんや家族と接するのは大好きでした。

待遇もいいし、安定しているし、お休みももらえる…でも、そのうち、自分がスタッフルームの中で浮いているのに気がつきました。おエラさんは都と区の出向職員、我々は身分上は民間人です。が、長年、そういう中で仕事をしていると民間人のスタッフにまでどうやらお役人根性(?)が知らず知らずに染み付いてくるようです。

私はあくまでもPTとして利用者さんや家族サイドで「一緒に」問題を1つ1つクリアしていきたかった。でも、それを良しとしない考えのスタッフもいたのでした。同じ建物の中でも違う分野の私と同じ考えのスタッフは私の苦悩に気づいていました。彼らと仕事帰りに飲みながら話しをするうちに「このままでいいのか!?」と…

介護保険制度導入準備に向けてケア・マネージャー養成の5日間講習会があり、参加させてもらいました。全国からPT、OTが集いました。懇親会でどこかで見た顔が…北海道のOTでした。思いきって声をかけたら向こうも私に見覚えがあるというではありませんか。

たぶん学会か何かで会ったのだとは思いますが、彼はいきなり私に「Uターンしないか?」ともちかけました。彼は函館の老人保険施設で働いていましたが、病院も新しく建てるので経営者が地域リハもできて組織作りもできる経験者を探しているんだ。地元だし、ぴったりじゃないか。帰ったら経営者に話しておくよと名刺交換。

酔っ払って冗談で言っているのかと思ったら研修の数日後、その経営者から電話がきて吃驚!何度かの電話のやり取りの後、夏の帰省に引っ掛けて面接に行ってみました。経営者と事務長といっても二人とも40代で若いのにまた吃驚!しかも今まで勤めていたどこの経営者ともこのお二人は「人間が」違っていました。

民間の新設病院なんて苦労するのは目に見えています。でも、今の楽で安定した労働条件でも30数名のスタッフルームで村八分(?)になりながら自分の信念を曲げずに仕事をし続ける自信はありませんでした。かといって長いものに巻かれることもできない不器用な人間でした。この函館の人達と仕事がしたい!そう思い、わずか1年半で東京の職場を退職することに。

そんなそぶりはおくびにも出さなかったので職場の上司は吃驚仰天!しかも年度の途中退職!送別会は仲良くしていただいた部署の人達がバラバラでリハビリテーション課には内緒でこっそり開いてくれて毎日送別会状態。一番仲の良かった在宅介護支援センターの主任さんが「君は他の連中のように役人にはなれないのは見ててわかっていたよ。もっと一緒に仕事がしたかったけどな。頑張れよ!」とエールを送ってくれました。

パソ通の仲間達も「追い出しオフ」を盛大に開いてくれました。その直前に大阪のカテドラル(玉造教会)に堂本印象画伯のガラシャ夫人の絵を見に行ったのも良い思い出です。1997年9月1日、東京を去りました。

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