出た〜〜〜!! 閑話休題:乳輪下膿瘍
閑話休題:HLA-B51 内観との出会い
Drストップ 告解
たこやき〜
閑話休題:ベーチェット病
退職
函館テゼ
日野って埼玉!?
ドロドロ〜
捨てる神あれば拾う神あり




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出た〜〜〜!!
確定診断に結びつく所見が出てこない。やっぱり私は自律神経失調症か、心身症?と思い始めたある日…

「出た〜〜〜!!」と二重担当のエラい先生の方が薄いファイルを抱えて私のベッドサイドへ。朝っぱらからオバケでも出たんかいな。いつも沈着冷静なDrなんだけど。朝食が終ったばかりなので同室者も何事かと目をパチクリ。「何が出たんですか?」「君、PTならこれを見たらわかるだろ?」と抱えていたファイルを開いて見せて下さった。

英数字が何行か行儀良く並んでいるプリントアウトされたデータが貼りつけてあった。中に「HLA-Bw51陽性」の文字。その下に6つの英数字があり、1番目の「HLA-Bw5101陽性」どこかで聞いたな…そう、PTの学生時代、内科の教科書にあったような…HLA抗原だ!そうそう、ベーチェット病の補助診断項目にあったのを思い出した。「あのぉ、でもこれが陽性だからって、ベーチェット病ということではないですよね?」「そうなんだけどね。ベーチェット病患者さんの遺伝子を調べると半分近くの人が陽性になるから補助診断にはしているんだよ。」同室者は何のことかわからずポカン。私は呆然。

それから私の先祖の出身地をわかるまでたどれと言われて4代上まで遡ったら、北海道、山形、盛岡など、すべてベーチェット病多発地帯の出身。しかも私の両親は祖父が兄弟の従兄弟同士という血族結婚。ベーチェット病は北緯30度から45度の間のシルクロード沿いの地域に高頻度にみられ、他の地域には少ないことから別名「シルクロード病」とも呼ばれている。「これで確定に近いかも。」とDr。結果的にそのまま「ベーチェット病」と診断がついたのです。

やっと診断名がついた!神様、ありがとう!
診断名がついて喜ぶ奴がいるかと思われそうだが、何年もわからずに、やれ自律神経失調症だの、心身症だの、ステロイド依存症だのと言われ続け、病院をたらい回しにされていた私はまさに、こんな心境だったのです。


閑話休題:HLA-B51
膠原病の補助診断としてHLA抗原検査というのがあります。HLA抗原というのは白血球の表面にある血液型のようなもので、臓器移植の時に拒絶反応が起きるのは提供者と移植者でこのHLA抗原が合わないため。だから別名、組織適合性抗原とも呼ばれています。HLA-B51というのはこの主要組織適合性抗原遺伝子の1つで、第6染色体短腕上に存在すると言われています。HLA-B51はさらに6つのサブタイプに分かれることが示され、HLA-B51陽性者のサブタイプはすべてHLA-B5101であることがわかっています。

ベーチェット病発症の内因の1つとしてこの遺伝子が関わっていると言われています。でも陽性だからといって、必ず発病するわけではなく、逆に陰性でも発病する人がいます。病因遺伝子がHLA-B51そのものではないとされていますが、まだ不明な点が多い。たた、ベーチェット病患者の陽性率は53.8%と出ているので(正常人は15%)補助診断として有効とされています。ちと、難しかったかな?(データ資料:厚生労働省保健医療局疾病対策課難病情報センターより)


Drストップ
ベーチェット病と言えば膠原病類縁疾患。病因、病態不明、治療法も確立していないので厚生省特定難病疾患に入っている「難病」。なのに私はたいしたショックもなく、入院したら逆に元気になったものだから「ほんとに病気か?」と疑いながら、毎夕、誰もいなくなった検査棟で筋力が落ちないようにロザリオ1環(約2、30分)唱えながら歩いていた。

「ちょっと、あなた!何分歩いているの!」という声に振り向いたら、外来主治医。なんとずっと見られていたらしい。「20分は歩いているわよ、歩き過ぎ!10分以上は歩かないように。くれぐれもステロイドのおかげで動けているということを忘れてはダメ。」ありゃりゃ、怒られちゃった。「すみません。」と謝って先生の後ろにくっついて階段を登ろうとしたら「あなたはエレベーター!」はいぃぃ…

数日後、カンファレンスにかけられてからカンファレンスルームに呼ばれ、主治医二人からムンテラ(説明)された。診断名は不完全型ベーチェット病。原因、治療法は確立していないので対症療法しかない。PTは肉体労働で激務なため、続けるのは難しいだろう。寒冷地で病状が憎悪するので、身体のことを考えるなら、暮らすのは東京が北限と考えた方がいいが、どうするか。それに伴って治療はどこで(北海道or東京)するかと矢継ぎ早に聞かれた。

楽天家の私もPTがもう、できない。寒い所では病状が悪化するかも知れないと聞いて、さすがに固まってしまった。「しばらく考えさせて下さい。」診断がついたので特定難病疾患申請の手続きに必要な書類を渡された。医療費助成があるためだ。ところが北海道と東京では書式から何から違うので、これまた面食らってしまった。(この当時は障碍者と同時申請できないシステムだったから、結局申請せずじまいだったが)

北海道の北大、札幌医大のDr達に話して意見を求めたら双方のDrに「東京にいなさい。」と言われた。「このまま東京での治療を望みます。」と主治医に答えた。なっちまったものはしょうがない。不可抗力なのだから。

でもPTを辞めなくてはいけない。…これがショックだった。


たこや
退院、退職、部屋探し、引越し、それから…とにかく、やらなければいけないことがゴマンとあって、どこから手をつけてよいやらわからない。しかも所属している聖リタ教会で「黙想と祈りの集い」を開く日取りが10月3日と決まっていたから、その準備もしなくてはいけないし、その時は北海道にいなくてはいけない。そんなこんなで落ち込んで感慨にふけっている暇がなかったのが幸いしたのと、性格的に「とにかく、今できることをやる!常に動く!」というタイプだったので、まずは退院!

退院間近になって、今までお目にかかったことがないDrが突然来て「私、ベーチェット専門医で、月曜と木曜に外来に出ていますが、私の外来にかかりませんか?」と。私は今までの外来主治医にそのまま戻ると思っていたので「はぁ。」と曖昧な返事だけした。ベーチェット病ってやっぱ、特殊なせいなのかな?

部屋へ戻ったら、ベテランの担当看護婦がさっと私のカーテンを引いて耳元で「ベーチェット病の患者さんが少ないから、あの先生は”症例”を診たくて声をかけたのよ。別にベーチェットが専門とか、得意だというわけではないの。大学病院である以上、研究機関だからやむをえないとも思うし、一人のDrに診続けてもらえないと思っていた方がいいけれど、それでも診てもらえるうちはあなたと相性があった先生に診てもらった方がいいから、良く考えて。」と囁いた。

外来主治医に聞こうにもちょうど夏休み中で1週間留守。留守中を頼まれたDrが「退院後の外来予約なんだけど、元のF先生のままでいいかしら?」と聞きに来た。どうやら上の先生からの話しは聞いていないらしい。

初診で”疑わしい病気がある”と見抜き、教授回診の時は自分が主治医ではないのに他の先生方の後ろで私のことをメモっていて(と同室者から聞いた)入院中も上記のように運動制限などのアドバイスもしてくれ、その疑い通りの診断がついたのだから、できればこのままこの先生に診てもらいたいと決心し「はい、そのままF先生でお願いします。」と告げた。

その後、この担当看護婦から「再入院を覚悟せよ」というようなガイダンスまでされた。縁起でもない!と言いたいが、実際、このテの病気は憎悪、寛解を繰り返す人も多く、それを受容し、なるべく生活に気をつけることが必要だということを予めほぼ全員に退院時に告げるのだと言う。実際、私も再入院して、またこの看護婦さんと再会することになったのだけど。

きっかり3週間の検査入院で、退院時は私をこの病院へ連れて来て下さったシスターがまた迎えに来て下さった。7人部屋の悲喜こもごもの3週間だったけれど、特に仲良くなった同室者とプレドニンの副作用で見事にムーンフェイスになったほっぺに指で輪を作ってほっぺの肉をむにゅっとはめて
「たこやき〜!」と記念写真を撮った瞬間にシスターが入って来たので目を丸くされ、しばらくシ〜〜〜ン…その後、大爆笑!

帰りの電車の中でシスターに入院時、あまりの部屋の暗くて異様な雰囲気に息を飲み「ここにこの子を置いて大丈夫だろうか?」と心配だったと。ところが3週間経って迎えに来たら部屋の雰囲気が一変していたので「まったく、あなたって人は…」と苦笑されてしまった。別に私が部屋の雰囲気を変えたわけでも何でもないのだが、気がついたらみんなでバカを言っていたというただ、それだけ。


閑話休題:ベーチェット病
またの名を「シルクロード病」ともいい、厚生労働省特定難病疾患に指定されています。病気に関しての詳しいことは下記のサイトをご覧下さい。

日本は多発国で約1万8千人ほどの患者がいるそうですが、同病の人と初めて知り合ったのはネットででした。とても仲良くしていただいている同病の方々のHPに病気のことが詳しく書いてあります。
難病情報センター

国が調査・研究の対象に指定した
118の難病の情報を提供している
「ベーチェット病友の会本部」
ベーチェット病友の会本部の公式HP

「web tomo」
こちらは大阪支部の公式HP

ベーチェット病患者や家族はまず
ここに行くのではというほど大御所

病気のことを勉強できて女性
患者は特にカキコしやすいサイト

イルカと管理人さんに癒されます。
いつもお世話になっています

アニメやゲームの背景を描くお仕事の
ね〜さん。大変お世話になってます


退職
職場で倒れてからこの時までですでに10ヶ月が経とうとしていた。その間ずっと休職扱い。最初の職場ならとっくにクビだったろうと思うと事務長に感謝。まずは入院中に落ちた体力を少しでも回復させ、函館に戻って事情を話し、退職の手続きをしなくてはいけない。でもやることがありすぎて今振り返るといつごろ、何をどうしたかをはっきり思い出せないので順序が多少違っているかも。

まずは函館に帰り、退職届を出した。わずか2ヶ月しか務めなかったのに事務長は私に有利なようにとりはからって下さり、院長も「もっと一緒に仕事をしたかったですね。お疲れさまでした。早く老けろとは言いませんが、ある程度歳をとると病勢が落ち着きますし、もし働ける体力があれば非常勤やパートの口が東京ならありますから。」とにこやかに労をねぎらって下さり、院長とはその後も時々メールをやり取りしている。このお二人には今もとても感謝している。

退職に関することと検査入院費用が莫大にかかったのでその払い戻しなどの事務手続きを終えると東京にとんぼ帰り。今度は住居を探さなくてはいけない。修道院に戻ると院長様姉妹に「あせらず、ゆっくり探しなさい。間取りを見るのに事務室のFAXを使ってもいいわよ。」と言って下さってこちらも大変ありがたかった。さっそく住宅情報誌とにらめっこ。

どこに住むかはしばらく仕事ができないので福祉にお金をかけてくれる所というのと、できれば以前、東京で働いていた時に籍を入れた教会に通いたくてその教会に通える距離にある所を候補とした。だが、仕事をした区以外は地理すらわからず一人ではお手上げ。途方に暮れていた時に助けてくれたのはまたまたネット友達。フェブラリー隊のメンバー達だった。

一人は修道院に訪ねてくれ(その人のお母さんがこの修道院に繋がりがあって、シスターも私もビックリ。おかげで女子修道院なのに彼を私の部屋へ通してくれた!)一緒に地図と住宅情報誌を見たり、もう一人のネット友達はオフ会を企画してストレス解消させてくれたり。修道院の近くの教会に籍を置くネット友達と御ミサの後、聖歌をハモったりと楽しい時間ももてた。こういう状況にならなければ味わえなかった時間だと今は思える。それも神様、全部あなたのご計画だったのですか?


函館テゼ
住居探しと同時進行でしなければいけなかったのがリタ教会での「黙想と祈りの集い」の準備をすることだった。世話役をしている方とリタ教会のベルクマンス神父様と手紙やメールで打ち合わせ。でも東京にいる以上、準備や広報は私一人の力ではどうしようもない。広報ちらしは事前にPCで作っていたので各教派の教会にちらしを貼ってもらうためにパソ通のキリスト教フォーラムで親しくなった函館のメンバーに協力してもらった。日本基督教団、日本基督教会、函館市内にある3つのカトリック教会、聖公会と多くの教会に貼ってもらえた。問い合わせ先は私だけれど、なんせ東京で仮住まい中だから書いた連絡先が携帯電話の番号。北海道から問い合わせがほんとに来たのには驚いたけどね。長距離電話をかけた方、ごめんなさい。

札幌では何度か行われているが、道南では初めてなのでクリスチャンの方ですらどういうものなのかご存知ないからどれだけの人が集まってくれるかわからない。私が主催するメーリングリストのメンバーで、札幌在住の同じカトリックの友達と、岩手県在住のプロテスタントの友達が行くと言ってくれたので、お世話役の方と私と父、函館の日本基督教団の教会にちらしを貼ってくれた人、ベルクマンス神父様を合わせて最低でも7人はいるからそれでもよしとしようと思った。

ところがフタをあけてみたら…なんと40人もの人が集まって吃驚!
しかも岩手県の友達はDrで、この日は土曜日だったために本当は外来の当番だったのに無理を言って代わってもらって来たとか。リタ教会は小さいが音響なども考慮して作られているので、ギターとふんわりした声が反響したし、とても私達以外は初めて歌ったとは思えないほどの素敵な混声四部合唱になった。今でもこの時に密かに撮ったテープを聞き返すとうっとりしてしまう。

お世話になっている修道院のシスター達がいつも会の後にお茶とお茶菓子を用意して下さっているのを真似して終わってからお茶会もした。いろんな教派の方やクリスチャンではない方と談笑もできた。

そして翌日、私は東京教区に教籍を移すために転出証明書をもらってリタ教会に別れを告げた。


日野って埼玉!?
働いていた時に通っていた教会に籍を戻すつもりでいたのでその近くに住みたかったが教会周辺はなんせ家賃が高い。築15年8畳ワンルーム8万円なんて所ばかりでこの区に住むのは諦めた。ならばと居候している修道院のある区でと探していたら入退院の時に付き添って下さったシスターが物件を見に行く時も付き添って下さった。この区も籍を戻す教会がある区と同様、下町で福祉に割と力を入れてくれている。ただ治安が悪い。(-_-;)傷害、殺人事件なんてのは今もしょっちゅう。なのでなるべく安全とされるエリアに住まなくてはダメだとシスターが不動産屋さんにダメだしをして何件目かで「あなた!ここがいいわよ!ここにしなさい!」とシスターが決めちゃった。(笑)

駅から徒歩3分、一人で住むには広すぎる間取り。しかも新築。当然家賃も高い。それも今まで住んだ中で一番高い。「今までは寝に帰るだけだったから狭くても良かったでしょうけどこれからはゆっくりして空いた部屋は切り絵を作る部屋にするとか友達を泊めるとかできた方がいいわよ。」「そうですね。」なんてあっさり契約しちゃった。

この時私はまだちきんと病気の受容ができていなかった。というかこの時口内炎程度で他の症状は治まっていたし(治ったわけではないのにね)目に炎症を起こすタイプではないので数年休んだらフルタイムは無理でもパート(東京ならPTのパートもある)くらいなら働ければ家賃が多少高くてもどうにかなると思っていた。

さて引越し。北海道からだと引越し代が高いからとりあえず大きな家電製品は修道院の物置に入れろと院長様が仰られたので親に頼んだらあらかたの物が着いてしまった。おい、全部とは言ってないぞ。(汗)修道院から契約した新居までは車なら10分もかからない。また例のシスターが修道院のライトバンで運んで下さることになった。私は主治医から「引越しは口出しだけで手出しはするな!」と何度も念を押されていたのでそうそう動き回るわけにもいかず親を手伝いに呼んだ。「じゃ、僕が行きます。」と言って手伝いに来てくれたのがこれまたネット友達。他にも何人もの友達が手伝いに行くと言ってくれたけれど輸送、搬入がおもになるのであまり人数が多くてもどうかということになり男手と車の両方の条件を満たしてくれる人に甘えた。

前述とは違う人でしかもまた男性。「あなた男性のお友達もたくさんいるわね。」とシスター達は興味深々で彼にいろいろお尋ねになる。

「まぁ、日曜なのに彼女のためにねぇ。」…ここまではよかった。んが…
「どこからいらしたの?」
「日野です。」
「日野!?まぁ、そんな遠いところから!
「日野みたいなところから!?」
「何時間かかるの?」
「高速で1時間半くらいですから近いですよ。」(苦笑)
「まぁ、高速で1時間半かかるの!?」

これだけでもボロクソだが父がとどめの一言を…

日野ってあの埼玉の?

…父よ、日野は東京都です…

今でも彼はこの話しをして苦笑いする。ごめんねぇ。
「どなたが彼氏?」なんてシスター達にからかわれたがこの彼は女房子供もちですってば。家庭サービスをしなければいけない日曜日にわざわざ日野みたいな(^_^;)ところから片道1時間半もかけて手伝いにきてくれたのはほんと感謝!スレンダーな彼のどこにそんな力があるのかと正直驚いたが次から次へと新居に荷物を運び込み、あっというまに終わってしまった。父は「俺、何もしなかったな。」

おまけに引越し祝いだと彼は1枚のTシャツをくれた。日野といえば大河ドラマでも話題になっている新選組土方歳三の故郷。歳三グッズが函館同様たくさんあるようで歳三の写真をプリントした日野バージョン。(喜)例のシスターも引越し祝いにとお手製の福寿草のちぎり絵を下さった。こちらは玄関に飾らせていただいた。他に日本基督教団函館教会で昔いただいた「汝を守るものはまどろみ給うことなし」の聖句を書いた額とカトリックの違うネット友達にいただいた当時4枚しか出回っていないと言われたちょっとかわった(よく知らない。;^^;)洗礼者聖ヨハネの額も玄関に。いくらアウトローでもこうして神様、あなたを感じていたかったのです。そうしないとまた私はふらふら流浪しそうでしたから。「行き先も知らず」旅に出たアブラハムのような確固とした信仰は私にはありません。

いよいよ住み慣れた(?)修道院から退去。黙想会でもなければ修道院に寝泊りするなんて機会はないし、黙想会にしても短期間。しかもシスター達とは一線を画してというのがほとんどなのでこんな経験は後にも先にもできないでしょう。4ヶ月ちょっと置いて下さったばかりでなく、いろいろお世話して下さり、最後には引越し手伝いで来た両親まで泊めて下さった。親子でお礼を申し上げて修道院を後にした。院長様を始めシスター達、本当にありがとうございました。こうして東京での療養生活が始まった。


ドロドロ〜
元所属していた教会に教籍を戻したらみんなに「お帰りなさい」と言われた。ははっ。教会の往復だけでヘタレてしまうのでいろいろな役は免除してもらった。でもまだこの頃は通えていただけ良かったのよね。勝手なものでそうできなくなってからあたりまえにできていたことが”ありがたい”と思えるようになるのだなと。

それなりに小康状態を保っていたのだが夏…
ある朝突然、おっぱい(しかも本来乳が出る所ではなくとんでもない所)からおっぱいではないものがボタボタと出てきた。げ!何、これ。でも痛くも痒くもない。

そういやその2年前の12月の仕事中に突然、胸が痛く真っ赤になって腫れて病院へかけこんだことがあった。普通の乳腺症なら出した膿からばい菌が出てくるものだが何度たまった膿を抜いて調べても菌がなく、ただ白血球の残骸しかなかったそう。菌がないから抗生剤も効かず、大学病院へ回された。注射器で膿を抜いたり切開したりした直後に仕事に戻っていたがクリスマス会の司会を仰せつかっていたのに膿が止まらず病院へ行ったのがいけないと自分の上司と同じ係になったOTにずいぶんいじめられた。とうとう司会途中であまりの痛さにダウン。痛み止めもまったく効かなくなっていた。見かねてそのOTの上司でもあり、リハビリ課の課長でもあった人が帰らせてくれたということがあったのでそれが頭をよぎった。あの時は3ヶ月ほどであれはなんだったんだろうというくらいその後勝手に治ったのに…

ガーゼをあててどうにかその時にかかった大学病院へ。大学病院のはしごはしたくなかったがその時の主治医がいるかどうかはわからないがカルテがある所の方がいいからね。2年前にはそうでもなかったのに乳腺外科はものすごく混んでいてなんと6時間待ち!!やっと呼ばれていきなり切開された。ところが何度切開しても次から次へと膿が出る。エコーをやってとてつもなくデカイ膿瘍が左右の乳腺にいくつもあるのでもうちょっと切らなくては治らないと言われて外来手術の予約をさせられた。あ〜あ、ほんと次から次ですな。

外来手術の日。手術台ではりつけになったところでおでましになったのは主治医ではなく、隣の診察室(仕切りがないので見える)で診察していた教授殿。あらま、乳腺炎ごときにと思ったら…消毒する前に触診。しばらく触って手術室の看護士さんに「手術中止!」と申し渡した。「は?」

「これね、こんな外来手術じゃダメだよ。かなり深い所に膿瘍があるから。全身麻酔でやらなくてはいけないレベル。そういうことで今日はなしね。」呆然。細胞診、マンモグラフィーはいずれも癌の診断には有効だが膿は映らないし、細胞診でも白血球だけが検出されて終わり。癌でなければいいやとは言わないでしょうがでもどうもそういう感じで膿瘍の状態がわかる検査はエコーしかやっていなかった。ベテランの教授だから触ってわかったというわけね。中途半端に切られていたら傷が増えるばかりでもっともっと治るまでにかかったかも。

その後CTやMRIをやってなんと膿瘍は肺に届くほど深い所にあるということがわかった。じゃあすぐに全身麻酔で手術…とはいかなかった。なんせ外来でも6時間も待たされる病院。全国から癌患者が押し寄せるので「癌でない人はウチじゃなくても」(そうはっきり主治医に言われた)とその大学系列の千葉県(!)の病院へ回された。なんでこうなるの?

あ、そうそう。この間に救急車にも乗った。今までにも何度か乗ったことはあるが(^_^;)ある朝、冷たい感じがして目を覚ましたらベッドはおろか床まで膿でベタベタになっていて吃驚!あまりにも膿が滴り落ちてくるので乗り物に乗るどころか服も着られなかった。病院に電話をかけたら「じゃあ、救急車で来て下さい。」と言われ、しょうがなく呼んだ。救急隊員が2人部屋まできたが私は胸以外はピンピンしててすたすた歩ける。「死にそうじゃないのにすみません。」と思わず謝ったら「これじゃあ、タクシーにも乗れませんよ。死にそうじゃなくてもいいんですよ。どうぞどうぞ。」と救急車備え付けのフェイスタオルで圧迫して更にバスタオルで押さえてくれた。病院には「車椅子搬送」と連絡したそうだが膿がどんどん出てくるので「動かない方がいいでしょう。」としゃんしゃん歩けるにも関わらずストレッチャーで搬送された。降りる時「私達は病院へ運ぶことしかできませんが病気にメゲずに頑張って下さい。」と隊長さんとおぼしき人に励まされた。やさしくされてうるうるしちゃったよ。でも着いた病院の救急外来で「外科の診察室まで歩けるでしょ。」とつめた〜く言われて大勢の患者の中を上半身はバスタオル1枚で看護士の後について歩かされた。最先端医療をうたっている病院でもこういう配慮には欠けている所があるのよね。


捨てる神あれば拾う神あり
って違う宗教ですな。(^^;;
紹介された病院は地図で見るとさほど遠くなさそうなのに2回電車を乗り継ぎ、更にバスに乗って…と片道2時間近くかかる所にあった。でも新しくて綺麗な病院で設備もとてもよさそう。紹介状の宛名の先生はとても温和で優しそうな先生だった。「同じ検査で申し訳ないけど…」とまた一通り検査をされた。…その日、会計で目が飛び出た。そっか!ここは千葉県だから丸障(重度身障者医療費受給者証)がきかないんだ!ということは全身麻酔の手術、入院…となるといったいいくらかかるんだ?青山病院に入院していた時も10日で18万の請求が来てひやっとしたっけ。手続きすればあとから戻ってくるとはいえ…

検査結果を聞きに2度目に行った時、そのことを主治医に話した。すると主治医は「以前、私が受け持っていた患者さんで同じようなことがあり、その人は途中で医療費が払えなくなったと治療を中断してしまわれたんです。もうそんな患者さんは出したくありませんから…僕の先輩が都内の病院にいるので電話してもし引き受けてくれればそちらへ行った方がいいでしょう。」と都内の病院へ回してくれた。ああ、捨てる神あれば拾う神ありですね神様。え?神様は捨てない?…そうでした。私が神様を捨てることはあっても神様は決してお捨てにはなりませんよね。理不尽と思えることでも人間のせいであることが多いのにえてして神様のせいにしてしまいがちです。ハイ。

そうやって紹介されて行った病院の主治医とこれから4年間、メタクソな喧嘩をしながら(笑)おつきあいしていくことになります。腕はとってもいいんだけど人格に問題ありの先生で大変でしたが人間的にも成長なさったとみえて(無礼ですな)先日「患者が選ぶいい病院」みたいな本を立ち読みしていたらこの先生が乳腺外科医の1位になっていた。(驚)お年よりには当時も優しかったけどどうして若い患者にはああもつっかかっていくのかというくらいトラブっていた先生だっただけになんとも頼もしいやらおかしいやら…

これから4年間この病院の外科病棟で私はPTとしてではなく、同じ釜の飯を食った患者として知り合った人達のいろいろな『生と死』を見ることになります。
…今を生きていることは当たり前ではないのです。


閑話休題:乳輪下膿瘍
乳腺の炎症性疾患には大きく分けて急性乳腺炎と慢性乳腺炎があります。
急性乳腺炎は出産後早期に発病。おっぱいが詰まったり、乳頭からばい菌が入って発病します。私がかかったのは慢性の方。(子供産んでないしね。;^^;)こちらは陥没乳頭を伴うことが多く数ヶ月から数年に渡り再発を繰り返します。
治療法としては前者はおっぱいが滞らないようにマッサージして赤ちゃんにおっぱいを飲んでもらって乳管を広げたり、抗生物質の投与。酷ければ切開。後者は安易に抗生物質を投与したり切開すると再発するので病巣乳管を切除する必要があります。なのでこちらは大きな手術になるわけ。私は2年間で全身麻酔の手術を3回、外来手術はその前後で回数がわからなくなるほど受けて完治までに4年かかりました。もちろんこれには個人差があります。詳しくは専門サイトを参照して下さい。


内観との出会い
中間管理職ってのは性に合わなかったけれど最後の職場では破格の待遇で雇ってもらえてさぁ、これからという時にダウンして退職。好きではない(苦笑)東京へ来てベーチェットだと判明し、更に乳輪下膿瘍で何度も何度も切開、排膿を繰り返し、痛くて痛くてたまらないのに外科医からはステロイドのせいで治りが悪いとさんざん嫌味を言われ続けて正直、生きているのがしんどくなった。

そしてこともあろうか死にたくなった。しかも発作的に。
上記の外科の病院の帰り道、地下鉄に飛び込むところだったのだよ。
でも飛び込まなかった。なぜか。

検査入院のベッド待ちをしていた時に買ったノートPCを背中にしょっていてふと買ったばかりのこのPCを道連れにするのはもったいないと思い、ホームにおろした。この時所属していた堅信の代母さんが入院中にくれたイタリア製の革のリュックにPCを入れていたのだがこれを見たら私が飛び込んだ後、これが誰かの物になるのかなぁ…買ったばかりなのにしゃくに触るなぁ…

と思ったら急に惜しくなった。
で、飛び込むのを止めた。…バカみたいでしょ。
でもこんなアホみたいなことでも自殺を思いとどまったり、逆に自殺しちゃったりってこともありなのかなと思ったよ。でもこのままじゃまずいよねぇ?

その次の週の日曜日、御ミサの後に講演会があった。この時の所属教会に私が所属する前から居候しているらしい大阪の神父様がいらした。めったに司祭館から出てこないがたまに主任司祭が不在の時で替わりの神父様もおいでになれない時は御ミサをたてたり共同回心式の個別告解の贖罪司祭として見かけるだけ。この神父様が本をお出しになるとかでその本の中身についての講演だという。この神父様のお説教は変わっていて神父のくせに仏教の話しをするので講演会ではどんな話しをするのかなと何気なく御ミサの後、居残って講演を聞くことにした。

それが私と内観との出会いだった。
内観ってどっかで聞いたことがあるなと思ったら私にステロイド剤のことを教えてくれたり修道院に居た時に修道院のPCの不具合を直してくれたネット友達に「あとヨハンナさんに足りないのは内観だね。」と言われたまさにそれ。でもこの講演を聞いた時には「ふぅん」程度でしかなかった。


告解
告解とは読んで字のごとく罪を告白して神父を通してイエス様に赦していただくというカトリックの秘跡の1つ。この時の所属教会はクリスマスとイースターの2週間前の土曜日に共同回心式をしてその中で個別告解をする形式だった。やっぱ、コレ、告解しないとヤバイよなぁ…などと(まだ反省の域を出てない)思って昼間の共同回心式に出た。告解部屋は3つあるので贖罪司祭は3人。私達信者が座っていた席に近い告解部屋の前に行列を作ってから贖罪司祭は部屋に入る。

あ、この神父様…
1ヶ月ほど前に講演を聞いた大阪の神父様が私が並んでいた告解部屋にお入りになった。初めてこの神父様に告白するのでなぜかどきどきした。おずおずと告白したらびっくりするほど優しい声色で神父様が質問してくる。何?この告解は!今までいろんな教会で告白してきたが神父から告白内容についての質問なんてしたことなくてみんな型通りに償いのお祈りの数を言われて「父と子と聖霊の御名によってあなたの罪を赦します。」オシマイだったのに…聞かれるままに答えていたが神から授かった命を自分で断とうと思ったなどとクリスチャンとしてはあるまじき罪を告白したのだがどんどんカウンセリングのようになっていくじゃないの。「私の後にもたくさんつかえているのになぁ、なんだろこの神父様」などと思いながらもこの神父様に個別告解のわずか1,2分ではなく、みんなぶちまけてみたい気がなぜか起きてきた。

3つの告解部屋で1番遅れて終わったのがこの神父様。それだけ一人あたりに告白を聞く時間をかけていたということ。信者は多いが罪を聞く神父の数は少ないから「1分以内でね。あれこれ言わなくても1つだけ言うように。」と言われるのが現状なのに。告解の後は御ミサになるので他の告解部屋で告白を済ませた人達はみんな跪いて待っている。でも何とも不思議でいつもの告解より少し気が楽になったような気がして御ミサが終わってからホールで一服していたこの神父様をつかまえて「集中内観に申し込みたいのですが…」と言っていた。2月の寒〜い時に集中内観をしたのだが…身体は正直、死ぬかと思ったが心は生かされて帰ってきた。


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