たった2ヶ月 再上京
閑話休題:浜言葉 閑話休題:黙想と祈りの集い
パティオ「天のおもちゃ箱」開設 ステロイド依存症!?
暖かい職員 本格的な発病
吹雪の中のイエス様 膠原病?
金のロザリオ にわか志願者
何〜!? シスター電気街へ行く
フェブラリー隊 モバイラー
父も再洗礼 大飯食い
金の十字架 異常が出ない




私のおもちゃ 1P目 3P目


たった2ヶ月
函館を離れて16年が経ってのUターンでした。通勤の都合から親とは別居。函館市内にマンションを借りました。市内にカトリック教会は3つ。ベルクマンス神父様のすすめで人数が多くて若者がいる(自分がすでに「青年会」にいるのは恥ずかしい年なのに)教会にいきなり籍を入れましたが半年経たずに籍を抜きました。(爆)

今度の職場は新設病院なので何もかもゼロからのスタート。デスクがポンとあるだけで、カルテ庫はおろか、カルテをファイルする物までありません。平行棒も1つだけ。患者さんをみながら施設基準の認可を取るための準備、カルテや機能評価、処方箋などのフォーマット作り、役職者になったので会議にも出なければいけない。覚悟はしていたものの、激務でした。ただ、どちらかというと、肉体的というよりは精神的ストレスの方がはるかに大。

なぜなら、なぜか東京から私にくっついて一緒に就職した年上のPTと折り合いが悪かったからです。元々その人はどこにも所属しない一匹狼。彼女が経営者に出した条件がなんと、月に4日間、趣味で続けてきたものを習いに上京させてくれることだったのだから。実際は労働基準法の改正により、40時間労働が義務付けられたために彼女は土曜日に出勤して、ふりかえで平日に半日休みを取っていたので月に4日と半日(半日出ても役に立たないので5日)つまり、1ヶ月の中でいつも1週間は留守。

その間、私と助手さん1人(彼はとても良い人柄。しかも函館の盲学校の私の同級生と友達だった)で彼女の患者さんも常にカバーしなくてはいけなかったら、そら、倒れるわな。(-_-;)しかも管理職者がスタッフの最年少というのは向こうもそうだろうけれど、こちらも精神衛生上良くありませんな。

9月の頭に就職して11月5日、朝のミーティングで新患さんの処方箋に目を通した途端にメニエール病の眩暈発作を起こして倒れました。東京では1度も発作を起こさなかったのに。外来でステロイド剤の点滴を打ってもらい、眼振がひどいから明日、治まっても必ず病院へ行けと言われて函館市立病院へ。そこには札幌医大で私にメニエール病の診断をつけた最初の主治医がいたのです。主治医が大学を辞めて7、8年経っていたのに私のことを覚えていました。パッと見て即、入院。絶対安静、持続点滴にしないと耳が聞こえなくなると言われてそんなに悪いのかと愕然。

結果的には翌年、退職したためにたった2ヶ月しかここでは働けませんでした。


閑話休題:浜言葉
津軽海峡を隔てているだけだから東北弁に近いですが、特に「下海岸」と呼ばれる地域の「浜言葉」は内地(北海道以外の人をそう呼ぶ)の人にはさっぱりわからないでしょう。他の土地と同じように若い人はあまり使いませんが、お年寄りの病院ですから、この浜言葉が機関銃のような早さで飛び交います。こちらも浜言葉で応対。「郷に入れば郷に従え」でそうしないと、特にお年寄りは心を開いてくれません。東京からくっついてきたPTは言葉がわからず、助手さんと2人で訳していました。(^^;)

東京の厳しく冷たい言葉(としか患者さんには思えなかったのでしょう)に患者さんは露骨に嫌な顔をして、彼女とは会話を交わさない人がほとんど。彼女が留守の時にはおしゃべりをしだすので私達は吃驚したくらい。これ、わかりますか?つっかからずに読めたらすごい。濁音は打ち間違いではありませんからね。(笑)

「ちょっと先生、こええじゃ。休ませでけれや。あぁ、こええ、こええ。ゆんべ、足がやめでやめで、は、寝られながったってば。先生もここさ坐れや。しゃがんでたらあずましくないべさ。先生もちょっとくらい休んだっていいっしょ。先生、函館にいたんか。んだもの、言葉がわかるわな。あれ?おらほの先生、どごさいっだ?しょんべ出てぇじゃあ!」

…お世辞にも綺麗な言葉とは言えないのですが(^^;)味があると思いませんか?


パティオ「天のおもちゃ箱」開設
パソ通に限らず、インターネットのBBSなどで気まずい思いや、ちょっとした誤解から喧嘩になったことはありませんか?テキストのみの難しさというのがありますね。同じ文章を書いても受け取り方も人によってさまざまだし。私自身も反省の毎日。

ずっとパソ通にハマっていましたが「何かおかしい」と思うことが多々ありました。それは上に書いたこと以外でもたとえばキリスト教の話題なら「教派」による違いです。プロテスタントは何百という教派がありますし、カトリックは教派がありませんが、それでも右から左まで(^^;)いますし、そのどちらにも属さない教派もあります。

でも、みんな同じ主を信仰する兄弟姉妹のハズです。それがちょっとした解釈の違いや教義の違いという私からすれば枝葉末節でしかないことに(こう書くだけでたちまち叩かれますな)で論争になります。中には「ちょっとキリスト教に興味があって」覗いたというクリスチャンではない人に対して「押しつけ」としか思えないような強引なレスをつける人も中にはいます。

地の果てまで行って福音を延べ伝えよとイエス様は確かに仰せです。でも、果たして教会へ行くこと、洗礼を受けること「だけ」が信仰でしょうか?一人でも多く、教会へ連れて行くこと「だけ」が宣教でしょうか?そもそも「教会」って何?「洗礼」って何?「クリスチャンってどういう人?」「本当のエキュメニカル(再一致)って何だろう?」…元々疑問に思っていたことが論争をボードで見るたびにフツフツとまた湧き上がってきていました。

東京での私の追い出しオフの4次会(!)の後、朝の電車を待つ(^^;)ファミレスで仲間の一人に「ああいう論争が起きない自由なことが書ける場所をヨハンナさんが作ってよ。」そう言われました。酔っ払っていた私は「よっしゃ!やったろじゃないか!」と言ってしまったのです。酔っ払ってパティオを開設した私っていったい…

かくして1997年11月1日諸聖人の祝日にニフティ・サーブ(現@ニフティ)でパティオ「天のおもちゃ箱」を開設しました。このネーミングは我ながら気に入っています。(^^;)このサイトのトップに「幼いイエス様が…」のメッセージがありますが、これはパティオのオープニングメッセージそのままです。ローカルルールの柱は3本

1、超教派。クリスチャンではない人も歓迎
2、絶対に信仰を押し付けないこと。
  また、自分の教派が1番で他は間違いだという類の批判も禁止。
3、辛かろうが、悲しかろうが「神に感謝」などと綺麗ごとを言わずに正直に
  腹がたったら「バカヤロー」悲しかったら「悲しい」と書いてもOK。
  かつ、信仰にまったく関係ないバカ話し、ゴミ蒔きも大歓迎

これでも外部からの揶揄・中傷があるために本当はこんなことしたくはなかったけれどパスワードをかけ、ローカルルールを承諾してくれた人のみにパスワードを教える会員限定としました。特に3番はプライベートなことも書けるようにしたいと思い、プライバシーの保護という意味も。でもまさか開設して4日で入院しちゃうとは。(^_^;)


暖かい職員
治療はでっかい点滴瓶を1日に4本。そのうちの2本は高濃度のステロイドホルモン剤。24時間点滴に近かった。歩くと酔っ払いのようによたよたしてまっすぐ歩けないし、字を見ると吐き気がするのでほとんど寝たきり。そこへ東京から私にくっついてきたPTは仕事上の決断を仰ぎに来ました。

決断を迫られても現場に出ていない私には決断のしようがありません。でも「責任問題になるから主任さんの決断をもらわないと私が困るんです。」PT経験は私よりはるかに上なのだから決断できないハズがない。単に自分が責任を負いたくないというのがミエミエで彼女が帰った後で「何、あの人!」と同室の人がいっせいにビックリ。

でも経営者、事務長はちゃんとそれをわかっていました。事務長がお見舞いに来て下さっただけでも恐縮したのににっこり笑って「わかっていますよ。とにかく先生はゆっくり休んで下さい。仕事を持ち込ませないようにさせますから。」ありがたかった。

しかもいつもとてもおっかない(^^;)婦長さんまで大きなポトスを持ってお見舞いにいらして「鉢は根がつくから見舞いには良くないって言うけど生命力が強い植物だし、斑紋が出ると綺麗よ。立場の違いからあなたとはいつも揉めるけれど私はあなたと仕事がしたいんだからね。しっかり休んでから出てきなさいよ。」ああ、ここの職場に来て良かった!早く治して仕事がしたい!そう思いました。

そんな私にパティオの仲間達も激励の手紙やお花を送ってくれました。毎日全国各地から何かしらかが送られてくるのでお部屋の人に「あなたは良い友達を持って幸せね。」と言われました。本当にそう思います。これは私の性格が良いとか、行ないが良いとかでは決してありません。主が与えて下さった仲間達はみんな心が広い暖かい人ばかりだったから。


吹雪の中のイエス様
ある日、聴力検査から帰るとお部屋の人が「宅急便のオジサンが来たわよ。検査に行っていると言ったら”他の病室へ行ってまた来ます”って。今度は何が送られてきたのかしらね?」と。「えぇ〜、またぁ?もらってばかりでお返しできないよ。困っちゃうなぁ。」と言いながらもわくわくしながら(^^;)待つことしばし。

そこへ入って来られたのはアノラックに長靴、リュックをしょってトレードマークのベレー帽をかぶり、大きな紙袋を持った当別聖リタ教会のベルクマンス神父様!「も、もしかして宅急便のオジサンって、このかた?」「そう。違ったの?」毎日似たような格好の宅急便の人が私の所に来るから間違われたようで。(^^;;;;;

函館ー当別間は2時間に1本しかJRがありません。バスは1日3本。しかも私が入院した病院は函館山のふもとで坂の途中にある病院(市立函館病院。現在は街の中にあります)。トラピストからここまで来るのに徒歩と公共交通機関だと天気が良くても片道2時間以上はかかります。しかもこの日は先が見えないほどの吹雪でした。週に1度、こうして神父様は入院中の教会員の所へ御聖体を捧持しておたずねになっているとのことですが、この時私は函館市内の教会に所属していて、当別教会の教会員ではなかったのに。

ただただビックリする私を慰めて下さり、御聖体も下さったのです。しかもトラピストのあの茶色くて大きな御聖体を!点滴瓶をぶら下げたまま、ベッドの上に正座して泣きながら御聖体をいただきました。6人部屋ですから何事が始まったのかとみんなシーン。かまうもんかと大きな声でお祈りをしました。

吹雪の中をイエス様が来て下さった!

本当に私はそう思いました。神父様をお見送りした後、部屋へ戻ったら隣のベッドの人が「あなたリタ教会なの?あのかた、トラピストのベルクマンス神父様でしょう?すぐわかったわ。それにあなたのロザリオ綺麗ね。私のはこれ。」と枕の下からなんとロザリオを取り出すではありませんか!「え?カトリックなのですか?」「そう。」って。ひゃあ!(@_@)

私が少しでも気分が良いとロザリオの祈りをしながらまっすぐ歩く練習をしたり、夜景を見に上の階に行くのを見ていたけど自分もカトリックだとなかなか言い出せなかったと仰る。これまた主のお引き合わせ。

函館はドックが倒産してから過疎化とマイカー化のために私の高校時代に比べてバスの本数が極端に少なくなってこの時所属していた教会は距離は私のマンションから数キロしか離れていないから夏は自転車で行けるけれど冬はミサに間に合う時間のバスがないのでタクシーに乗らなければ行けない。

函館は観光地として有名だし、気候も北海道の中では過ごしやすいけれど福祉は北海道の中でも特に遅れて(というかお金を出さない)いるし、私のように車の免許が取れない人やお年寄りには非常に暮らしづらい街。

実家は私が所属している教会とリタ教会の中間くらいに位置しているから、週末に帰省すれば父に車に乗せてもらえる。ならばいっそのことリタへ籍を移そう。いえ、リタ教会員になりたい!と決心したのでした。

ところがリタは受け入れOKが出たのに所属教会側がすんなり籍を移させてくれなかったために住所を実家にして「転居のため」という誰にも文句を言われない強行手段をとらざるをえず、実際にリタ教会員になれたのは翌年の春でした。(^_^;)


金のロザリオ
耳鼻科病棟は短期入院の人ばかりなので救急室と併設しているために急患が次々と運ばれてきたりでとにかく騒々しい。しかも今まで10年近く眩暈発作を起こした時だけステロイド剤を使い、ちゃんと離脱できたのに今回は減量すると発作を起こしてリバウンド。これを2度繰り返したので「どうしたの、今回は。」と私も不安に。

とても細やかで優しい主治医でしたから私を別室に呼んで「使うの嫌だろうけど。」とリバウンドするたびに説得。かつ、「メニエール病は音を遮断しなくてはいけないから本来、個室でなければいけないのに病院の都合で申し訳ない。」と頭まで下げられてしまいました。先生のせいではないのに。あまりにも状態が思わしくないのでとうとう主治医の判断で2人部屋に移されました。

静かになったのが良かったのか、それから2週間ほどでようやく退院できました。もうクリスマス間近。東京のパティオメンバーが受洗するというので退院したばかりで無茶かとは思いましたが、思いきって東京へ。

もう1つ、東京へ行く目的がありました。入院中毎日ロザリオの祈りをしていたら珠は取れるわ、鎖が切れて指は切るわでそれでもラジオペンチで繋いで使っていたのを見た父が「そんなすぐに壊れる素材じゃなくて金とか銀で出来たのはないのか?」 「東京へ行けばあるかもしれないけれどただの道具にそんな高価な物いらないよ。」

「道具が良くなければ良い仕事はできない。いいからこれで買ってちゃんと見せなさい。おまえにお金を借りたままでその十分の一にもならないけど。」と札束をポン。職人気質のエンジニアの父らしい言葉でした。私は言われた通り、東京でずっしり重い金のロザリオを買いました。ちなみに父も私も値段を知らなかったけれどなんとぴったんこだったという。今年見たら1万円値上がりしていました。(^^;;

祝別を東京にいた時に所属していた教会の神父様にしてもらったのですがてっきり外国製だと思っていたら日本製だと神父様が仰る。しかもここの教会員の手作りの物だと。まぁ、金ですから値段が普通のロザリオとは桁違いでそうそう数が出ないようですが。レジでも「この値段ですが良いですか?」と聞かれる始末。ゼロを一つ見間違えているかもと思われたのでしょうね。(^^;;家宝として孫子の代まで使えますわ。

そして東京メンバーとも再開してどうにか帰ってきて無事、お正月を迎えました。


何〜!?
元旦ミサは毎年リタ教会へ行っていましたからこの年もリタへ。ベルクマンス神父様が「お父さんがカトリックになるからな。お勉強会にあなたも出なさい。」「は?今、何と仰いました?」と私は思わず聞き返してしまいました。

クリスマスの夜半のミサに例によってあずかった父は帰りがけにベルクマンス神父様に呼びとめられ「お父さん、カトリックになりませんか?」「はい。」だけで決まっちゃったとか。「何〜!?」(@_@)神父様はずっと声をかけたわけではなくて、この時が初めてとか。それに「はい」とだけ答えた父も父だけどそれで決まりって仰る神父様も神父様。何ともアバウト!時を選んで声をおかけになったかどうかは定かではありませんが、まあ、そう信じましょう。ははは。(^_^;)

父とベルクマンス神父様とのお付き合いは私がまだ流浪していた時からだったのです。父も私がリーダーとして任命された翌年に任命され、以来、教団の教会で日曜学校のリーダーをずっとしていました。毎年、日曜学校では野外礼拝をやるのですがいつも同じ場所じゃ面白くない。かと言ってあまり遠くにも行けない…

で、ふと、私が小学生の頃、いつもスケッチをしていたトラピストを思いつき、突然、「日本基督教団の教会に所属する日曜学校のリーダーをしている者です。ここで野外礼拝をしたいのですが、この敷地内で子供達とお弁当を食べてもいいでしょうか?」とトラピストに問い合わせたのがきっかけだったそうです。

今までプロテスタントの人でそんな申し出をした人はいないとかでベルクマンス神父様は鮮明に覚えておいでだったのです。快く承諾して下さり、子供達を修道院の御聖堂にまで入れて下さったとか。「あれがあんたのお父さんだったとはね。わっはっは!」と。それ以来、クリスマスにどうぞと父はカトリックでもないのに声をかけられて私がカトリックになる前からトラピストでクリスマスをお祝いしていたとか。

他にも教団の教会でいろいろ問題があり、父はすでに1年以上、教会から離れていました。この問題はさすがの父も腹にすえかねたのか私が帰省するといろいろこぼしていました。私もその事情は前から感づいていました。特定のかた、あるいは組織的なことを批判することになりますから事情は書けませんが、教会もしょせんは罪ある弱い人間の集まりだということです。完璧なのは神様のみ。

父子で躓いて教会から離れてしまったのだから神様の方が「おーまいがっ!」って仰りたかったかも?教会に行っていないことは知っていましたが、私は父に一言も「カトリックになれ」とは言っていません。すすめるつもりも毛頭ありませんでした。父には父の信仰があるはず。同じ教派でなくてもかまわない。今までだって「私はカトリックで父はプロテスタントで母はクリスチャンではありません。」と言うと「面白い家だね。」と言われていましたから。

ベルクマンス神父様は「娘と同じところにいたいと思ったんだよ。」と仰いますが、それは父にしかわかりません。年が明けても私の体調は思わしくなく、1日おきで点滴を打ちに延々と通院することになるのですが、日曜日は札幌を離れて以来のお勉強会に私も父のお付き合いで出席することになりました。


フェブラリー隊
ずっと休職中、ほぼ1日おきの通院にいいかげんメゲて、ぶつけるところがない私はパティオで書きまくっていました。面白くもない暗い話しを一方的に読まされるメンバーはたまったものではなかったでしょう。

すでにメンバー数は50名に近かったというのに。主催者の職権乱用もいいところ。それでも誰1人私を責めたり、批判する人はいませんでした。それどころか、私を激励しに「函館へ行くよ!」と関東メンバー数名が言ってくれたのです!細かい打ち合わせのため「フェブラリー隊」と命名。

2月の最終土曜日。男性2人、女性3人の計5名が1泊2日で忙しい仕事をやりくりし、莫大な飛行機代をかけて函館に来てくれました。空港に出迎えに出たら半年ぶりで会う懐かしい面々が桜や菜の花など春の花の花束を抱えて出てきた!

函館空港に近い天使の聖母トラピスチヌ修道院「天使園」(女子修道院)で撮った写真は今もパソコンの横の本棚に飾っています。その日は市内観光。激安旅館を手配していたので夜通し飲みながらしゃべりまくりました。

翌、日曜日は当別教会の御ミサへ。カトリック、プロテスタント、クリスチャンではない人の混合グループ。この時「盆と正月(クリスマスとイースター)くらいしか教会へ行ってないかも。」なんて言っていた幼児洗礼のカトリック仲間がいましたが私は彼の祈る姿に衝撃を覚えました。オーラが出ている!

マジで。物心つく前から意味もわからずにご両親からお祈りを覚えさせられていたことでしょう。当別教会は普段の主日でも完全な歌ミサという古い御ミサ形式だからなおのことだったのでしょうが、あの祈りのオーラは成人洗礼の私には何時間祈っても、逆立ちしても出せません。本人は一向にその自覚がなかったけれど。(^_^;)

この時の彼を見て確信しました。もちろん、御ミサや礼拝、教義は大事です。でも、礼拝やミサ出席率が良い=良い信者ではない。跪いて長々と祈って御聖堂から出た途端に人の悪口を言う人よりは彼の方が本物の「クリスチャン」だと思いました。クリスチャン=キリストを着る者。この仲間達は誰がなんと言っても本物のクリスチャンだと胸を張って私はみんなに紹介できます。

「行ないが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
                日本聖書協会 新共同訳聖書 使徒ヤコブの手紙2:17

ベルクマンス神父様は集団のお客様にはいつも何か歌を歌わせなさいます。この日も自らオルガンをお弾きになってみんなで「いつくしみふかき」を歌いました。そして仲間の1人が「テゼの歌を歌おうよ。」というので何曲か「黙想と祈りの集い」で歌うテゼの歌を歌いました。東京にいた時は毎月出ていましたが北海道では札幌で年に1度あるかないか。しかもこの時はその情報すら入りませんでした。

リタで集いが持ちたいなと漠然とこの時に思いましたがまさかそれが実現しようとは…神様、やっぱりあなたって全能のおかたなんですねって今ごろ言っても遅い?

時間よ、止まれ!本当にそう思いました。明日からまた早起きして通勤ラッシュに揉まれるというのに彼らは最終便で帰京しました。「人の心を知りたくば患ってみよ。」と昔の人はよく言ったもの。

病気自体はちっとも良いことではないけれど、病気にならなければ人の真心をこんなにありがたく感じたでしょうか?私は彼らにどうやってこの暖かい真心を返したら良いのでしょう?こんな素敵な仲間達をお与え下さったのはあなたなのですよね。

デオ・グラチアス!(神に感謝!)


父も再洗礼
リタでお勉強をするのは父の他にあと2人。私はおまけのハズなのにいつもベルクマンス神父様は私にはテキストを見せず、「これはどこの何章に書いてありますか?」「第二次世界大戦と言えば、日本にも滞在したことがあってアウシュビッツで人の身代わりになって殉教なさった聖人がいますがそれはどなたですか?」…ぜ〜んぶ、私に答えさせるの。毎週私がテストをされているようでした。誰の勉強会じゃ。しかもオヤジの理屈っぽいこと。質問する以外は少しは黙って神父様のお話しを聞かんか!(-_-;)

さらに神父様は「カトリックとプロテスタントの大きな違いは?」「えーと…7つの秘跡とパパ様(ローマ教皇)のことでしょうか?」「よろしい。それはあんたが教えなさい。」「はあ?」プロテスタントの父にはそこが一番肝心でしょうが。神父様ったらまったくアバウトなんだから。(-_-;)

なんせ年明けからお勉強を始めたので御復活祭には間に合うはずもなく、てっきり聖母被昇天かクリスマスに転会式かと思ったら主の御昇天に洗礼式と転会式をするつもりだと仰る。おいおい、まだテキストの3分の1しか終わってないぞ。

しかも私が再洗礼だったから父娘で合わせた方がいいだろうと父まで再洗礼に。「洗礼名を決めてあげたか?」「普遍的なのでいいんじゃないですか?ペトロとかパウロとか」と適当に答えたら神父様、しばし腕を組んで考えて「トマス…トマスはどうだ?」思わず私は吹き出してしまいました。復活なさったイエス様の脇腹や手に指を突っ込んで槍や釘の跡を確かめなければ信じないと言ったあのトマス!理屈をゴタゴタこねるオヤジにぴったり!(^○^)

代父は本来ならばリタ教会員の中からどなたかになっていただくべきなのでしょうが、仕事で10年以上のお付き合いがあり、函館市内の教会に所属するカトリックのかたがいらっしゃいました。私がカトリックだと知ると周りにはクリスチャンが誰もいないので話し相手をしてほしいとよく、実家に遊びにいらして私も親しくさせていただいていました。

年齢が私の一回り上位だから年下の代父になってしまうけれど「全然知らない頼まれ代父」よりはずっと良いと思い、ご本人は躊躇なさっておいででしたが強くお願いしてそのかたに代父になっていただきました。

かくして父もこの年、トマスという霊名をいただいてカトリックになりました。驚いたのは聖水を受けるお盆が洗面器そっくり。それでも聖水が足りなくなるほどザバザバとかけられて可哀相に父と一緒に受洗した女のかたはスーツがびしょびしょ。(^_^;)私は私で父なんぞそっちのけで助祭になったばかりで院長様の許可をいただき、介添えについたトラピスト一、背が高くてハンサムなガブリエル神父様ばかり見ておりました(爆)。


金の十字架
金のロザリオの次は金の十字架…ははっ、私、実は光り物好きなんです。(^^ゞ某芸能人じゃないっての。この頃の私は頭痛と耳鳴りに悩まされていて、1日おきに点滴、週に1度、耳鳴りを抑えるために耳の中に薬を入れて電気を通すという治療を受けていました。水抜きをしないでプールに入ったような感じなのですが、別に痛いわけではなくて15分、薬がこぼれないように真横を向いたままじっと動かずに寝ているだけ。

その時、いつも身につけていた金の十字架に白金のイエス様がついたネックレスが胸元からこぼれ出ました。それを見た若い外来看護婦が「あなたのはイエズス様がついてていいわね。私のはコレ。」と彼女も白衣の下から金の十字架を取り出して見せるではありませんか!「イエズス様」という呼び方はプロテスタントではしません。(今はカトリックも”イエス”ですが以前はラテン語読みで”イエズス”だったから)

聞くとついこの間まで私が籍を入れていた教会員だった!大きな教会だし、私は30センチ離れたら人の顔が識別できない視力なのでわかるはずもなかったけれど。それからその看護婦さんとすっかり仲良くなりました。

仕事の合間をみては彼女は私にステロイドのマイナーな副作用を教えてくれる。私も医療従事者として一般的な知識は持っていましたが、やたらと具体的。怪訝そうな顔をしたら「私、SLE(全身性エリテマトーデスという膠原病)で5ミリ飲んでいるのよ。5ミリだから外来であればどうにか働けるんだけどね。幸い私はそんなにムーンフェイスにならないから助かったけど、首のむくみは薬やめても取れないからね。これは諦めるしかないよ。」と。

いくら夜勤がなくてステロイド5ミリでもやはり激務。点滴を打ったり、眼圧が亢進して仕事量の制限をされたりとかなり苦労していました。私には看護婦としてではなく、患者仲間としてこぼしていました。お互い医療従事者だから大変さは以心伝心で細かく説明する必要もなく、しかも専門用語で通じるというのもあったけど。私は私で東京行きを迷っていた時に彼女がプッシュしてくれたから決心したというのもありました。随所、随所で神様、あなたはいろいろな人と出会わせてくれますね。


再上京
いっこうに良くならず、ステロイドが長期服用になってきたために主治医は外科的治療の検討をしました。メニエール病はいまだに不明な部分が多い病気ですが、重症例には前庭神経を切断すると眩暈が治まるという臨床報告(今は前庭神経を切らずに他の方法もあります)があるからだそうです。

ただ、それに該当するかどうかの検査や手術は東京でなければできないと。しかもまだごく限られた病院でしかできないと言われ、紹介状を書くから検査だけでも受けてみては?とすすめられました。

検査だけでもどれだけ滞在するか検討もつかない。1ヶ月迷った末に上京を決意。ホテルに泊まり続ける余裕はないしと困っていましたが、その直前に上京して「黙想と祈りの集い」の1日黙想会に出た時に会場である修道院の修院長様が、以前から気にかけて下さっていて「ウチへおいでなさい。」と仰って下さいました。

かくしてUターンして約8ヶ月で再上京。結果的にはこのまま東京に居続けることとなります。入院期間も含めて4ヶ月半、この修道院の黙想の家にお世話になりましたが、以前、東京にいた時にこの集いに出ていたご縁で、この修道院のお世話にならなかったら…私はここにこうしていなかったかも知れないのです。

政治家などが入院するのでTVでは見たことがある有名な病院への紹介状を持たされて東京へ行ったはずなのに全然違う結果となったのですから…

閑話休題:黙想と祈りの集い
私がごちゃごちゃ説明するのははばかりがあるので(^_^;)お知りになりたいかたは私のリンク集からも飛べますが、以下のサイトをご覧下さい。

http://member.nifty.ne.jp/Amizero/index.htm


ステロイド依存症!?
紹介された病院へ。当たったのは見るからに厳しそうな女医さん。一通りの検査を終えた後に言われた言葉は「ステロイド依存症ね。エアロビクスをしなさい。」「は?」ステロイドを切ると発作が起こるから困っているのであって誰も好きで飲んでいるわけではない。しかもエアロビクスなんてできたら仕事だって出来ているわい。(-_-;)

初診でそう言われ、点滴を打たれてステロイド50ミリを処方。それを2週間で離脱しろと言う。副腎が自分でステロイドホルモンを作り出すまでに時間がかかるので減量が難しい薬で2日か3日で5ミリずつ減量というのが普通。どう計算しても減量ペースが早すぎて無茶。

他の患者は診察室のカーテンの前で最敬礼している。なんじゃ?2回目からパソ通仲間に付き添ってもらって診察室の中まで一緒に入ってもらったら一応、手術の方法などの説明はしてくれたがやはり「運動不足。エアロビクスをしろ。」と。仲間も呆れていた。こんな答えを聞きに上京したわけじゃない!

しかも傷病手当の書類記載をお願いしたら「そんなの、私の仕事じゃない。」と言い放った。でも私は申請する権利があるし、医者は書類を書く義務がある。さらになんと「あなたはもう、来なくていい!」と診療拒否までされた!紹介状まで持参して上京しているのに診療拒否とは何ごとか!

仲間が吃驚してメモを取り、私は「ならば、訴えます!」と診察室を出たら慌てて外来クラークが「先生に書類を書いてもらいますから訴えるのは待って!」と追いかけてきた。録音できるテープレコーダーを持って行くべきであったと後悔。

こんな医者がふんぞり返っているのだから呆れたもの。医者としては優秀かも知れないが、医者である前に人間であれと言いたい。患者はモノではない!ステロイドをぶっつり切られたおかげで思わぬ方向に発展したから今から思えば災い転じて福となると言えなくもないが、1歩間違うと服腎不全を起こして私は死んでいた。


本格的な発病
修道院のシスター達は「帰るのは待った!」と言ったが診療拒否されたのではどうしようもない。東京で働いていた時はそれなりに元気だったからどこの病院へ行ったらいいのかもわからない。ステロイドが切れて2日くらい経っただろうか。朝、起きようとしたが身体が動かない。「?」起きるどころか目覚ましを止めようにも寝返りすら打てない。「???」

毎朝、シスター達と一緒にすぐ傍にある教会まで朝ミサにあずかりに行っていました。ところが1日も休まない私が来ないのでミサが終わってからシスターが部屋まで見に来て下さいましたが…二人のシスターは部屋の入り口で立ちすくんだ。私はベッドに仰向けにひっくり返り、顔中から膿が吹き出していたのだから。

修道院にいたおかげで食事を分けて下さったり(黙想の家なので本来は自炊)飲み物を運んで下さったりと介抱していただけたが今のような独り暮しの時にこうなっていたらと思うとぞっとします。「前からそうじゃないかと思っていたのだけれど…この本を読んでみて」と院長様が1冊の本を貸して下さいました。タイトルは「膠原病」

疑われたことはあったし、「抗核抗体」は確かに陽性になるものの、リウマチ因子や血沈の亢進など膠原病特有のものにはまったくひっかからないのでどこの病院でも除外されていました。ここのシスターはなぜか膠原病に詳しいと思ったら膠原病のシスターがいたから。私をみて「くさい」と思ったと。

「ちょっといらっしゃい」と呼び出され、私の前で病院に電話をかけ、主治医を指名して初診の予約を入れたのでした。「私が付いて行くから。」初診から完全予約制の大学病院だとか。シスターに付き添われ、約2時間かけて着いた所はピンクの外観で中も綺麗な病院らしくない病院。


膠原病?
シスターが指名した先生はまた女医さん。明らかに私より年下。今度は大丈夫かいな。シスターも診察室まで入ってくれました。顔からは膿が噴き出し、お腹は腫れて押されると痛い、眩暈がしてふらふらする、口内炎もできている…ステロイドが切れて体調が最悪だったおかげでこの先生は「疑わしい病気がある」とだけ。

ピペットに10本くらい血を採られてその結果を2週間後に聞きに来いと言われ、ステロイドをとりあえずすぐに飲むようにといきなり処方されました。

紹介された病院でステロイドの依存症だから飲むなと言われたと言うと「ステロイドをそんな期間でゼロにするなんてステロイドの使い方を知らない医者でとんでもない!依存も何も現に切ったらこんな状態じゃないの!へたすりゃ副腎不全よ!」とその先生は怒り、とにかく身体中に起きている謎の炎症を抑えることが先決と。

ステロイド剤を飲んだら寝たきりに近かったのにあれよあれよと膿は引っ込み、どうにかこうにか動けるようになりました。2週間後、またシスターに付き添われて結果を聞きに行きましたが、あれだけ膿が出ていても炎症反応などはマイナスでこれといって特有なものには引っかかっていないそう。

でもこの2週間での症状の改善を見て「疑わしいのはベーチェット病か遺伝子に絡む病気の類ではないかと。これらは普通の血液検査ではひっかからないのが特徴で全身の検査が必要です。やはりどこかおかしい。」と診察2回目でいきなり検査入院の予約をさせられてしまったのでした。

「ほらね。じっくり腰を落ちつけてしっかり調べてもらいなさい。」とシスター。呆然。


にわか志願者
大学病院のベッド待ちだからいつになるかわからない。個室ならば空くけれど大部屋が少ないという。しかも「膠原病内科」という特殊な科だから3ヶ月から中には半年待つという人も。(@_@)私は北海道から来ているということで実際には約1ヶ月半待って入院することができました。

ステロイド剤を再開したおかげで症状は落ち着いて出歩けるようにもなったけれど、いつ病院から電話がくるかわからないので、そうそう外出もできません。せっかく修道院にいるのだからと「にわか志願者」よろしく、毎日御ミサに行き、修道院の図書室の本を読んだり、修道院の御聖堂の御聖体の傍で黙想したりと「ほ〜り〜」(?)な生活をしていました。

いつでも好きな時に御聖体の傍にいられるというのは慰めになりました。これはこれで幸せな時を過ごせたと思えます。

毎日御ミサに行く教会の神父様は私がてっきり志願者だとばかり思っていらしたとか。朝ミサの顔ぶれは決まっているから見たことないのが急にシスターと一緒に毎朝御ミサにあずかりだしたら、そう思うでしょうね。ははは。(^_^;)本物の志願者さんも1人いらしたのでよけいだったかと。


シスター電気街へ行く
「あなたをイエズスさまがおつかわし下さった!」と院長様が小躍り。「は?」聞くと管区でパソコンを導入したのでシスター達は区の講習会でワープロや表計算ソフトの使い方を一通り習ったそうだけれど、それだけではどうにもわからない。

しかもISDNにしたので何やら箱(TA)を置いて行ったが、パソコン側の設定まではしてくれなかったそうで困っていたと仰る。

置いて下さっているせめてものお礼にと各種設定やシスターの時間がある時に少しずつ、お教えすることに。インターネットに繋いで各修道会のHPなどをお目にかけたら絵が動いたり、音が出るのにシスター達は大騒ぎ。(^_^;)

メールのやり取りもお教えしたら中にハマってしまったシスターが。「あなたのように手元を見ずに打ってみたい」と仰るのでタッチタイピングをお教えしたらそれなりにおできになったのだからすごい!一般社会では定年のお年だけれど、このシスターの探究心には恐れ入りました。

そのうちにお知らせのパンフレットに可愛いカットを入れたいとか使う目的も命ぜられた仕事以外の欲も出てきたし、プリンターのインクも取り替えたことがないと仰るので、ソフトや備品を買いにそのシスターを秋葉原の電気街にお連れしました。

私はジャンク屋さんとか路上のワゴンで埃をかぶって売っているアヤシイ物も好きですが(^_^;)そういうヘンな(?)所にお連れするわけにはいかないので駅の近くでいっぺんに物が揃う大きなお店へ。

夏のボーナス時期のせいか、平日なのに人通りが多かったけれどグレーの修道服にグレーのベールを風になびかせ、三誓願の結び目がついた縄の腰紐というシスターの服装は電気街では目立ちましたねぇ。なんせアニメのコスプレじゃなく本物なんですから(^_^;)。押し合いへし合いになる横断歩道ですらさーっと人がよけて気持ちの良いこと。(^_^;)

一方、当のシスターは珍しくてウロウロ、キョロキョロ。領収書を書いてもらうにも修道院名が長いし、一般人には聞き慣れないから若い店員さんが困惑。メモに書いて「この通りに書いて下さい。」とお願い。シスターは修道院へ帰ると興奮しながら他のシスター達にさっそく報告。ああ、面白かった。(^○^)


モバイラー
7月18日入院が決まった。耳鼻科の検査のつもりで上京していたから荷物は何もない。百円ショップで日常品を買い、タオルやスリッパなどはシスターが用意して下さり、入院日は荷物をしょって付き添って下さった。私は1つ重い荷物があったから。

それはノートパソコン。仕事で使おうかと思っていたが、ネット中毒にすでになっていた私は仕事より何よりメールチェックやパティオの読み書きで使いたくて、これからいくらお金がかかるかわからないというのにB5のノートを入院直前に衝動買い。

病院で使わせてもらえるかどうかもわからないのにダメ元で担いで行った。外来と入院は別の場所にある。ホテルと見間違うほどスンバラシく綺麗な病院。エレベーターのドアが開いてまず目に飛び込んできたのが「12歳以下のお子さまのご面会と生花持ち込みはご遠慮下さい」の看板。な、なんじゃこりゃ!膠原病は若い女性に好発する病気が多いので母親は子供を抱きたがるし、子供もベッドに登りたがる。それがいけないのと生花禁止は免疫抑制剤を使うので感染予防のためでした。

7人部屋の窓側。ラッキー♪某野球場が見える。一般内科や整形外科には何度も入院しているけれどここは何だか雰囲気が違う。綺麗な建物、立派な設備、電動ベッド、有線までついている当時としては最新の設備とは裏腹に「暗い」

荷ほどきをしていたら隣のベッドの人がおもむろにサイドテーブルに乗せたのはノートパソコン!!「使っても良いんですか?」「私長いから。病院と半年間交渉したの。1日50円電気代払えば使わせてもらえるよ。」ヤッター!!\(^○^)/さっそく事務に申し出て入院初日からモバイラーになったのであります。前例を作ってくれた彼女に感謝!

しかも入院中に兼ねてからくどかれていた(?)某パソ通のキリスト教会議室がオープンしたために自分が主催しているパティオとは別にスタッフとして朝と晩、担当ボードの巡回もすることになったのでした。


大飯食い
入院生活って食べることしか楽しみがないけれどここの食事は今までに入院したどこよりも良かった!1日780円というのは決まっているから決して豪華な食事ではないのですがベッド数が少ないせいか工夫がこらされていました。どこでも10日か2週間でメニューが1巡しますが、ここは3週間で1巡。私はきっかり3週間入院したので一通りのメニューを味わうことができました。

常食の人は主食が大・中・小と量が選べる。普通、最初の処方では中になるそうだけれど私はなぜか大になっていたらしい。最初、あまりの量の多さにビックリ仰天したのだけれどそのお隣りさん「私も大よ。大だけヨーグルトがつくの。ここの食事美味しいから食べられるってば。」…なんと全部平らげてしまった。ステロイドの副作用の1つでもある異常な食欲増進もあったのだと自分では思いたいけれど何のことはない、ただの「食いしん坊」なだけだったりして。ははは。(^_^;)


異常が出ない
外来での主治医はこれ以上抱えきれないというほど入院患者を受け持っていたので入院の主治医は外来を担当していないお初のドクターになりました。今度は男の先生。二重担当制なので男性のドクターが二人。看護婦も完全プライマリー(担当制)入院初日から1日に2つも3つも検査や他科受診が目白押し。これが3週間、切れ目なくびっしり続くことに。本当に頭のてっぺんからつま先までという感じ。

他科受診も眼科、耳鼻科、産婦人科、整形外科…ほとんどに回されました。私が大大大嫌いな大腸ファイバー(好きな人はいないだろうけど)が辛くなかったのは後にも先にもこの病院だけ!モニターを見せられましたが初診で腫れていた大腸部分に潰瘍の跡はあったけれど潰瘍そのものはステロイドを処方されて治ってしまい、検査の時にはありませんでした。

ベーチェット病特有の虹彩炎も既往はあるものの現在の所見はなし。かわりに白内障が見つかった。耳鼻科は先天性の眼振があるためにここでも判別不能。産婦人科というのはベーチェット病というのは陰部潰瘍ができるから。確かに何度かできていた。でもこの時はきれいさっぱり治っていた。かわりに子宮内膜症が見つかった。

つまり、どの検査にも「引っかからない」のでした。主治医は入院中もプレドニンを処方し続けていたので症状が隠れてしまったらしい。外来での主治医は「私は優しくないからね。私ならステロイドをわざと切って検査するんだけど。」と苦笑い。

ここまで長年原因不明を引きずってきたのでどうせどこかがおかしいのならはっきりさせてもらいたくて「辛くてもいいからステロイドを切って下さい。」と頼んだけれど却下。中には飲まずに捨てる人もいるので看護婦のチェックが厳しく、目の前で飲まなくてはいけない。これといった異常が出ずに日にちだけが過ぎていきました。

私のおもちゃ 1P目 3P目


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